「平等」と「公平」
前回の投稿では、「1億円の壁」というタイトルの記事について考えました。「1億円の壁」とは、一律20%の金融所得課税が、高所得者ほど全所得に占める割合が高くなる傾向があり、所得全体に課される税率が下がるという事象でした。これについて、率と額の両方を認識する必要性、税改正する場合は市場への影響を想定する視点、が必要ではないかと考えました。
3つめの視点は、「平等」と「公平」を分けて捉える、ということです。
ウィキペディアによると、両者の言葉を次のように説明しています。
平等:偏りや差別が無く、みな等しいこと。
公平:公に平らなこと、すなわち一定の集団において、偏らないということである。人間には、「先に手を出したもの勝ち」とか、偏り、えこひいき、仲間外れなどがつきものである。公平とは、義務履行の結果として、平らに報じるとの概念である。
平等のほうは、シンプルにみんな同じに扱うということでしょう。そして、公平のほうは、義務履行の結果、すなわち貢献の結果に対して平らに扱うということになります。
例えば、ある製造工程で想像してみましょう。
Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、4人の労働者がいます。その日の製造計画は全体で10個でした。Aさんは4個作りました。Bさんは3個、Cさんは2個、Dさんは1個作りました。作られたもの10個は、品質がどれもまったく同じで、基準を満たしたものでした。全部で10個製造できたので目標達成です。そして、10個の製造によってその製造工程で得られる利益が1万円だったとします。
この1万円を、どのように分けるべきでしょうか。
平等の場合は、2500円ずつ同額を4人が受け取ることになります。みな等しく扱うからです。
しかし、それは妥当でしょうか。
おそらくは多くの人が、それはおかしいと感じるのではないでしょうか。生産活動に対する貢献の大きさが違うからです。貢献の大きさに応じて、Aさん4000円、Bさん3000円、Cさん2000円、Dさん1000円を受け取るべきだと考える人も多いでしょう。この観点が、公平ということになります。義務履行の結果に対して、平らに扱っているからです。(言葉の起源や定義を厳密に追求していくと、この考え方とは異なるのかもしれませんが、ここでは便宜上上記の意味合いで考えてみます)
私たちは、「平等な社会」と「公平な社会」と、どちらを目指すべきなのでしょうか。意見が分かれるところかもしれませんが、「公平な社会」のほうだと考えるほうが多数派でしょう。「平等な社会」を突き詰めると、完全共産主義国になります。しかし、中国が資本主義的な社会主義国を標榜して発展したように、完全共産主義国は成り立たないというのが、現時点の人類の営みだと言えるのではないでしょうか。
平等な社会を目指すなら、優先座席も、高齢者限定のワクチン接種といったやり方もなくなります。それらは一部の人を優遇する不平等なシステムだからです。男女同じように重い荷物を運ぶべきとなりますし、社長も新入社員も同じ金額の給与を得るのが平等な社会です。
これらは、公平な社会を目指して存在しているシステムと言えます。積極的に席を譲ろうという個人の気づきだけに期待するのには限界がある、社会の全体最適と感染抑制の観点からは高齢者にまずワクチン接種の対象を特化したほうがよい、男女は体の構造が違う、社長と新入社員では貢献の大きさが違う、それらを考慮して平らにするための仕組みです。
ちなみに、「デートや食事では、男性がすべて費用をもつべきだ」という考え方については、いかがでしょうか。先日、NHKでアンコンシャスバイアスをテーマにした番組がありました。同番組では、「この問いについて「イエス」と答えることは、アンコンシャスバイアスの門をたたいている」という説明でした。費用の支払いをどちらがしたほうがよいか、あるいは支払いの割合をどうしたらよいかは、荷物運びと違って性別差はないため本人たちが自由度高く考えてよいもの、という観点なのでしょう。(アンコンシャスバイアスについては、よかったら下記もご参照ください。)
続きは、次回以降考えてみます。
<まとめ>
「平等」と「公平」を分けて捉える