小説:遠野さん 【2000字ジャスト】
祖母の部屋から爆音でEDMが聴こえてきた。
それはまぁどうでもいい。
学校を辞めてから二か月ほどの間、僕は万能感を感じていた。
空腹でもないのに急いで食事を詰め込む必要がなくなった。
眠くもないのに無理に眠ろうとする必要がなくなった。
教室での人間関係に煩わされる必要がなくなった。
必要のない嫌な思いをする必要がなくなった。
その万能感は、二か月ほどでなくなった。
僕には趣味と言えるような趣味がなかった。
強いて言えば、人より少しだけたくさん本を読む程度だった。
これからいくらでも、好きな時間に本が読める。
と思っていたのだけれど、気が付くと僕は、朝に目が覚めて朝食を食べ、少し本を読み、昼頃になると昼食を食べ、夕方までスマホで意味のない記事を読んでいた。
僕はがっかりした。
そうして僕は、アルバイトをはじめた。
それは解体現場の「手元」と呼ばれる仕事だった。
解体現場と聞くと、重機や特殊な工具で派手に破壊するようなイメージがあったのだけれど、実際に行われる作業のほとんどは、手を使った細かな作業だった。
がれきの中から鉄筋を拾い、外した窓のガラスを割って枠のアルミと分け、コンクリートの床からリノリウムをはがし、壁紙をはがし、屋根や壁の断熱材を集めた。
建物をゴミとして捨てるために分別するのか、と気付いた僕は、物のスケール感と価値観が狂うのを感じた。
僕が漠然と抱いていた、建物への揺るぎない安心感はなんだったのだろう。
それ以来、僕の中の三匹の子ブタは家を持っていない。
その現場は古い病院だった。
と言っても、今はすっかりがらんどうになってしまっていて、病院だったのだろうな、と思う程度の巨大なコンクリートでしかない。
それぞれの部屋には、まだ部屋の名前を記したプレートが残っていた。
病院だった頃には絶対に入れなかったであろう部屋を、僕は作業の合間に探索した。
レントゲン室、手術室、会議室、霊安室、それから女子更衣室。
様々な感情を見てきたんだろうな、と思いながら、僕は壁に触れた。
想いが伝わってくる、なんてことはなく、それはただの冷たい色をした、冷たいコンクリートだった。
それでも僕は、少しわくわくした。
古代遺跡とコンクリートの廃墟と、いったいなにが違うというのだろう。
粉塵で息苦しくなった僕は、窓から顔を出して外の空気を吸った。
遠野さんが僕を見つけて、手を振った。
同じ現場に、遠野さんというおじさんがいた。
現場には珍しく、物静かで、いつも穏やかに笑う人だった。
若い頃に出した高熱の影響で声が思ったように出せなかったということもあり、気性の荒い作業員にはいつも怒られていたけれど、それでも遠野さんは優しく笑う人だった。
僕は遠野さんが好きだった。
その日の午後、作業工程の連絡の行き違いで、確認が取れるまで作業を中断しなければいけない時間があった。
僕と遠野さんは、建物の塀だった部分に並んで腰掛けた。
「君はまだ若いだろうに、どうしてこんな仕事してるの?」
「え?」と僕は聞き返してしまった。
遠野さんの声は、ささやくように小さいのと、しょっちゅう裏返ってしまうことで、一度で聞き取るのが少し大変だった。
「まだ若いでしょ?」
「そうですね」
「もっと楽な仕事あるんじゃない?」
「なんでもいいんです。家にいるより」
学校はどうした?とは、遠野さんは聞かなかった。
大抵の人は真っ先にそれを聞いてくる。
「いい運動にはなるよね」と、遠野さんは言った。
「そう。体動かしたかったんです」
遠野さんはなにも言わずに微笑んだ。
遠野さんはどうして、と聞きかけて、僕はやめた。
いろいろあったに決まってるじゃないか。
なにもなかった人がこんなに優しく笑うわけないじゃないか。
現場がそろそろ動き出したようだったので、僕と遠野さんは腰を上げた。
その時、遠野さんが何かを見つけて叫んだ。
「危ない!上!」
びりびりと響くような、信じられないくらい大きくて太い声だった。
僕は唖然とした。
どうやらその人は危険を回避できたようだったが、僕はそんなことより遠野さんに驚いていた。
「遠野さん、すごい声出るんですね」と、僕は言った。
「出そうと思えば出るんだけどね、ちょっと」
遠野さんは少し気まずそうに言った。
僕はその時、遠野さんが一瞬若い頃の姿に戻ったような錯覚を見た。
僕が家に帰ると、祖母はまだEDMを聴いていた。
僕は祖母の部屋を開けてみた。
「ばあちゃんただいま」
祖母は踊っていた。
祖母らしい動きで、ではあったけれど。
「ばあちゃん」
「あ、おかえり」
「ただいま。どうしたの?」
「この音楽?楽しいねこれ」
「パリピになっちゃったの?」
「パリピってなぁに?」
「んーと、なんでもない」
「SNSで知り合った女の子がね、私のこと年の近いお姉さんだと思ってて」
「うん。うん?」
「それでね、教えてくれたのこれ」
「おもしろいね」
「そう?」
「いや、世の中」
「そうよ。おもしろいのよ」と、祖母は言った。