見出し画像

報道の巨人が死ぬ日。

(Facebookに書いた2014年9月12日の記事の転載です)

朝日新聞の誤報問題。
吉田調書(東日本大震災時の福島第一原発に関する誤報)と吉田証言(太平洋戦争時の慰安婦の強制連行に関する誤報)が同時期に各種メディアに踊り、「調書」と「証言」という二文字のみで判別を余儀なくされるので非常に紛らわしいが、どちらかの報道によってどちらかの報道がかき消されるようなことがあってはならない。双方とも国益を損なう、外患誘致罪に相当するくらいの大きな大きな罪だ。

センセーショナルな見出しや話題を提供したいという記者の勇み足と、その方が新聞の売れ行きが良くなるだろうという営業的な側面での助平根性が相まって、これらの飛ばし記事や当て推量がおこなわれたことは想像に難くない。しかしウェブや週刊誌とは重みの違う、活字の王様たる「新聞」というメディアが、自ら王たる品位を貶めてまで金を求めるのならば、その王はもはや王ではない。この世に貧しい王に従う者はいても、卑しい王に従う者はいないからだ。広い意味での活字の世界で生きる者として、今回の朝日新聞の誤報はどのような結果を生むのかその成り行きを見守りたいと思っている。

そしておそらく、近い将来「新聞」という巨人が音を立てて斃れるときが来るだろう。そのとき報道は死ぬのか? それは違うと思う。報道が死ぬのはひとりひとりの記者の魂が死んだときに報道は死ぬのだ。大きな新聞社にいなければ何も伝えられないような記者は、沈没船と運命を共にするようにそのときに勝手に報道人として死ねばいい。しかし本当の意味で真実を知り、伝え、この世をほんの少しでも前進させたいという想いがあるのであれば、彼等の報道魂はきっとこれまで見た事も無い様な方法で(おそらくワールドワイドウェッブを媒体にした方法で)、この世界を照らす光になるだろう。

巨人は死ぬ。しかしその巨人の影から這い出た本当の意味での小さなひとりひとりの報道人が、巨人がいない世界から見える風景を、きっと明るく照らしてくれるはずだと僕は信じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?