【映画感想考察】ザ・スクエア「差別意識と無関心が生み出すリアルさ」
作品情報
監督:リューベン・オストルンド
2017年公開のスウェーデン映画、パルムドール(カンヌの最高賞)を受賞している。
あらすじ↓
感想(ネタバレなし)
主人公クリスティアンは現代美術館の企画責任者であり、全編を通して登場人物の内面が詳しく描写される。"現代美術"という理解できればある意味"高尚"とされるモノを風刺的に描いた作品であり、様々な解釈が出来る良き映画。キーワードとしては平等・差別意識・無関心(無関係)。
評価は9/10。大変面白かった。
考察(ネタバレあり)
「ディスコミュニケーション」
作品を通してのテーマは何か。私は「ディスコミュニケーション」(外面的:人間関係における)、「理想と現実の乖離」(内面的ディスコミュニケーション)であると感じました。劇中にでてくる人間関係で、意思疎通がお互いに取れている人は一人としていませんし、主人公クリスティアンもどうも一貫性がありません。
例えば、
・冒頭のシーン:クリスティアンの言うことはインタビュアーの質問に答え ているとは言い難いし、インタビュアー自身も質問それ自体を理解している様子はない
・広告側と企画者側での価値観の違いと広告側の人間の暴走
・脅迫文を作って投函しようと楽しく相談し、表面上は上手くコミュニケーションしているが実行に移したときに全くかみ合わない。
・少年に謝ろうとするもその機会も一生訪れない。
他にも様々な場面で見られる。
このディスコミュニケーションを強調する要素として、雑音やリアルさ(無関心)を多く組み込んでいる。
"リアルさ・無関心さ"
・砂の山の作品をチラッとだけ見て帰る人
・アイスバケツチャレンジ流行ったけど、その目的を覚えていない
・「目先の食事>美術」の聴衆
・部下の黒人が自分は少年に関係ないと言う
・クリスティアンは、自分が動画制作に一切関わっていないという
・猿のパフォーマーのシーン
・人々の歩く方向は常に一方向
"雑音"
劇中では頻繁に"雑音"が入る。赤ちゃんの泣き声であったり、犬の鳴き声、着信音、イスのオブジェの音、マスコミの音、以下のシーンでは特に顕著だ。やはり物事の上手くいかない違和感のある場面で使われているように思われる。
・企画会議の時
・脅迫文投函時
・アン(インタビュアー)との口論時
・最後の記者会見
「理想と現実の乖離」
ザ・スクエアの枠の中では誰もが平等の権利と義務を持ちます。作中でも言われるようにこれは理想論で、逆にこの枠の外に目を向ければ不平等に溢れかえっています。
スウェーデンは福祉が整い、平等であり、多様的で寛容である国というイメージが定着しています。それは数年前までの移民政策からも見てわかるでしょう。スウェーデンはかなり大量に移民を受け入れてきました。人口比で約20%で世界トップクラスです。
しかし、このせいでやはりディスコミュニケーションが増えているのでしょう。犯罪率も何倍にも増加しているし、監督はスウェーデン人ですから、この違和感というのを如実に感じ取っていることでしょう。
また「あなたは人を信じるか信じないか」の選択の描写
・左はMISTRUST"人を信じない" カウント3
・右はTRUST"人を信じる" カウント42
信じない側は理路整然としているのに対して、
信じる側は張り紙の文字ですし、モノも散らばっている。(カオス)
印象と全く逆ですね。
これはこういう場所(美術館)に来る人間が上流階級の人間であるということの描写だと思った。ただそれは現実感を伴わない張りぼての理想であり、それを煩雑な様子で表現していると感じた。クリスティアンも信じるボタンを押すだろうなぁ、、、。
「クリスティアンという人物」
これはクリスティアンの人となりを2時間30分見てきたみなさんなら簡単にわかるでしょう。彼は何でもないちょっとプライドの高い普通の人間でした。悪人でもなければ、無能なわけでもない。いたって普通。財布と携帯が戻ってきたとたん、現金を物乞いに渡すとこなんか最高でしたね。良いお父さんでもあるけれど、企画責任者としての立場・権力も持ちあわせる。責任者なんて簡単になれるもんじゃなさそうですから、プライドも高くなるでしょう。
彼は平等を願っているように見えます。ですが深層意識でやはり差別をしている。まぁ全く差別意識を持たない人間なんてこの世にいないですからね。
「少年」
泥棒というレッテルを貼られた少年とのやりとりでは、最初プライドが高いクリスティアンは謝ることが出来ない。しかし「助けて」という声が、木霊する。
これは2パターンの解釈が存在すると思う。
(1)この助けては幻聴、というかクリスティアンの頭の中だけで響いているモノ、だからこそ住人は誰も助けないし、クリスティアン自身も少年本人を探すのではなく、手紙を探し出して、ビデオを撮った。
(2)少年は実際にそこにいて助けを求めているが、人々はその無関心さゆえに住人は誰も少年を助けないし、クリスティアンもさっき謝れなかった手前、ビデオで済まそうとした。
書いていて思ったけど(1)かな。後のシーンも併せて考えると、ここは単に罪悪感からくる利己的な謝罪だろう、ビデオも言い訳がましいですしね。
しかしながら、その後のスクエアの中での娘のチアを見て、説法を話すコーチの話を聞いて直接謝りに行くことを決心する。
『罪悪感は無駄であり、間違ったのなら直して前に進めば良い。』
見てる感じだと少年の住む階の8部屋を回っていったのだろう。心の底から謝りたいという意気込みを感じる。
しかし少年はすでにいなくなってしまっていた。
クリスティアンは"直す"機会を、"前に進む"機会を永遠に失ってしまった。
そうしてエンディングを迎えるが、彼は変わることが出来たのだろうか。たぶん出来ないんだろうな。この終わり方だと。
演出
"ワンカットの異常な長尺"
カット割りが少なく、特に人物の表情を映すカットでは異様に長尺に撮られている、こうなると、我々視聴者はその人物の表情から、その心理状態を推し量らざるを得ず、嫌でも想像を掻き立てられる。作中でも、人の注意力は短く2秒で注意をひかなければ人は次に移ると述べていて、SNSの普及でそれが特に顕著になっている。長尺はこのアンチテーゼなんだろう。
"猿のパフォーマンス"
最初猿のパフォーマーが出てきたとき、群衆はこれが出し物であり自分は境界の外にいると感じている、それは時折起こる笑いや拍手からもわかるだろう。しかしその閾値を超えたら、表情が消え皆うつむき、自分にその矛先が向かないでくれと主人公でさえ願う。あたかも無関心でいることが正解の様に。しかし更にもう一つの閾値を超えると凶暴性が明らかにされ、リンチを行う。境界などない。
動画のキャッチコピー
「どれだけ非人間的行為が行われたら、あなたの人間性に届くのか」
正に体現してますね。
"よくわからない描写"
・アンの家をチンパンジーが徘徊、絵(美術)を描く??
・コンドームをなぜ欲しがる???→プライドが高い???わからん。
個人的に好きだったシーン・セリフ
"トレット症の人がいた時、周りに対して男性が寛容でいましょうと言うシーン"
寛容・多様的であることへの強制。この辺の価値観は現地に長いこと住まないと分からなそうだなと思った。
記者会見前にエレナと話すシーン
エレナ:そういえば、あなたの写真がいるわ
クリスティアン:どうして?
エレナ:笑顔のしかないの
こういう言い回し大好物です。
記者会見シーン
表現の自由の限界に達してしまったと?
コミュニケーションの天井を打ってしまった?
アートにおいて、他者の存在(見る人)は不可欠であると思われるし、この映画でもビジネスを絡めていることからも無視しえないと主張しているのだろう。他者の存在を気に掛ける個人の価値観で検閲を入れること自体が果たして自由と言えるのか。記者はそれを天井と表現した。
全体感想
最初は芸術性と商業性のジレンマを描く作品なのかなと思ったけれど、そんなテーマではなかった。様々な解釈が出来る映画であるし、テーマも一つというわけではないだろう。難解だが面白いと感じたし、見て良かった作品。少しばかり大げさにも感じたけれど、このくらいにしないと退屈してしまうしちょうどよい塩梅でした。
そもそもこの弱者救済が"義務"というキャッチコピーからして、果たしてそれは平等なのか。と問いかけている様に思えますね。美徳ですけど声高に叫ぶものでもないのかもしれない。
全く関係ないですが、3年前にスウェーデンに留学してたことがありましてスウェーデン語がちょっと理解できて嬉しかった。あれほど平等を謳う国でも物乞いはいましたね。
ストックホルムはかなり治安が良く、スウェーデン人がほとんどですけど、少し郊外に出ると違う人種がたくさんいたりします。ヨーロッパでは良く観る光景ですね。
移民政策についてはさすがのスウェーデン人でも不安を感じる人が多いのでしょう、移民規制推進の極右政党が最近では得票率をここ10年で急激に伸ばしています。スウェーデンも今後選択を迫られるでしょう。
最近やっと修士中間発表が終わったのでぼちぼち投稿していきたいと思います。
ではまた。