essay #12 美醜
友人が日本で行われたミス・コンテストに出場し、「美」についてSNSで発信をしていた時期がある。
見た目の美しさだけを求めて比べる大会だと思っていたが、そうではなく、社会貢献を最終目標とする素晴らしい機会なのだと彼女は言っていた。
彼女が出場したのはミス・ワールド・ジャパンだったので、そのスローガンは「Beauty with a purpose」つまり「目的のある『美』」。
美しくあることが最大の目的ではなく、別の目的があるからこそ美しくあるのだ、という考えのもとに、女性たちが自己分析を行い、歴史や社会課題を学び、自らのプロジェクトを動かしたりもしながら、各分野においてリーダーとして社会を引っ張っていけるような人材に賞が与えられる。
コンテストの方にはほとんど興味をそそられなかったのだけれど、「Beauty with a purpose」という言葉には思うところがあり、当時のスマートフォンのメモに考えをまとめていた。
Q.「美しくあること」に目的があるとすれば、それは何なのか?
わたしはなぜ、外見を美しくあろうとしているのか?
A. 美しい見た目であることはゴールではなく、それだけでは虚しく惨めな気持ちにさえなる。元気がない時に鏡を見ると、外側ばかり整えて、中身が空っぽな気がすることもある。
それでも私がなるべく綺麗でいようと思うのは、その奥にある私の意見や考えに耳を傾けてもらいたいからかもしれない。
一つでもその障壁になるものを減らして、最短距離で私の本当の姿に近づいてほしい。外面の奥にある、20数年で積み重ねてきた私の時間、私の歴史、強さと弱さ、陰と陽の方を知ってもらいたい。
世の中には容姿が美しくないことで人を下に見て、話を聞かなかったり、強く説き伏せる人がまだ存在している。その人たちに私の時間を奪われたり、命令されたりはしたくない。
容姿を揶揄われることは低レベルなコミュニケーションだれど、それでも実際にされれば私は傷つくし、落ち込む。だからこそ、要らない傷や攻撃をそもそも受けない私になって、初めから人と人として関わってくれる人を見つけたい。そのために容姿が役立つと思う。
また、容姿が整っていると、お綺麗な方だからこうじゃないですか、とか、〇〇は可愛いから云々、のようにコミュニケーションの端々に出てくるその人の意識の未熟さに気づける。
自分の生きる時間を大切にして過ごしているひとは、誰かの容姿に言及する時間よりも、考えや意見を交わす時間の方が長い印象だ。
一般人でしかない私の容姿のレベルなんてたかが知れていて、それが大きくアドバンテージになることなど、実際にはほとんどない。私が一番、私の現在地を冷めた目で見ているから、容姿についての過剰なコミュニケーションには危険を察知するレーダーが反応する感じだ。
人を見抜き、私のモチベーションを保ち、私のやるべきことに集中するために、美しくあろうとして保ってきた容姿が少しは役立つ。
だからこそ、人生の中のひとつのタスクとして美しくあることが存在している。
こないだの誕生日に、別の知り合いが「美しいってなんだろう?」という装丁家の矢萩多聞さんの本をプレゼントしてくれた。その題名を見た瞬間にこのメモを思い出し、あ、これは私の読みたかった本だ、と思った。そしてこのメモを、外に出すなら今だ、と思った。
美しくあろうとすることは、私にとって手段だ。
私の中にも、Beauty with my purposeがあった。きっと多くの美しい人の心の中にも、その人なりの美しくあろうとするに至った葛藤やその先への想いがあるのだろう。
美しさの定義もかなり広くなって、好きな容姿で存在することは前よりも楽になった気がするけれど、きっと美をめぐる分断や妬み嫉みは完全には無くならない。みんながそれぞれの美しさを求める道を妨げられないといいな、邪魔しないでいられたらいいのにな、と思う。