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essay #17 小説

今思うと、わたしのものの捉え方や考え方、行動のしかたの原体験に、小手鞠るいさんの作品があるように思う。

高校生の頃、素行が悪く親からよく携帯を没収されていた私は、お小遣いもほとんどもらえず、放課後や休みの日に友だちと待ち合わせて行けるような場所はほとんどなかった。だから、お金を使わずになるべく長く家族から離れられて他人から干渉されない、夏は涼しく冬は暖かい図書館は、自然と足が向かう場所だった。高校生の女子が一生懸命に流行りについていくには、パソコンの貸し出しもとてもありがたかった。
今、20年来の友情が続いている幼馴染とは高校が違ったのだけれど、連絡を取れない中で久しぶりに再会したのもその図書館だ。
振り返っても、思い出がたくさんある。

そんな歳のころ、特に受験控えていた頃は週末のほとんどを図書館で過ごしていたのだけれど、自習スペースで勉強するのに疲れたら、本棚から本や雑誌を探してきて読んでいた。
特に文学少女ではなかった私は、表紙やタイトルが好きなデザインの本を選んでパラパラとめくり、興味が湧いたら読むというミーハーな読み方をしていたが、唯一多くの作品が刺さり、同じ棚から読み進めることができたのが小手鞠るい作品だ。

「時を刻む砂の最後のひとつぶ」や
「泣くほどの恋じゃない」、
「エンキョリレンアイ」
「レンアイケッコン」
「永遠」
なんかを読んだ気がする。
どれを最初に読んだのかも、どの話がどの本にあったのかも、登場人物の名前も憶えていないけれど、小手鞠るいの文章が良かった。好きだった。みたいな漠然とした記憶が残っていて、いま好きな作家を聞かれても最初に出てくるのは彼女だ。

彼女の小説の中に出てくる女性は、とても人間らしかった。

とても主人公らしいというわけでもなく、ヒーローや英雄でも、プリンセスでもない感じで、ちゃんと一般人ではあるが、かといって普通かと言われれば、その生い立ちは、私たち現実の人間も自己紹介すれば必ず「なにそれ面白い」と誰かから食いつかれる経験を持っているように、絶妙にアイコニックだったりする。

その中でわたしの記憶に残っているのが「愛」と「アメリカ」。

小手鞠るい作品を全部読んだわけではないけれど、家族や結婚、恋愛が描かれることは多くて、主人公も多くが女性なので、彼女たちが経験する様々な軋轢や摩擦から、どう愛を捉え、どのように自分の意思でそれを手に入れたり、手放したりするかを読む中で、言葉以上に生き方の多様さを思い知った気がする。

自分の気持ちにこんな風に折り合いをつけるのか。
複数の選択肢をどれも選ばないこともあるのか。
結論は変わらなくても捉え方を変えることはできるのか。

そんな風に、彼女たちから様々な女性の生き方を教えてもらった。

それに、小手鞠るいさん自身がアメリカに移住しているので、舞台がアメリカの話や、娘がアメリカに留学している話が出てきたりと(記憶が定かでないが)1日の過ごし方の違いや、女性が1人で外国で暮らす様子の物珍しさに、憧れの感情も教わった。
意識下では完全に忘れきっていたが、わたしも偶然、初めての海外旅行はアメリカ横断一人旅だった。もしかしたら脳裏には、彼女の小説が残っていたのかもしれない。

最近「情事と事情」がドラマ化され、全く興味を持っていなかったのだが、SNSで #小手鞠るい のハッシュタグが付いているのを見て、原作が彼女の小説であることを知った。少なくとも原作の小説は、久しぶりに彼女の作品に触れられるきっかけかもしれないと購入してみることにした。

調べてみると
「ラストは初めから決まっていた」
「欲しいのは、あなただけ」
「今夜もそっとおやすみなさい」
「幸福の一部である不幸を抱いて」
「私の何をあなたは憶えているの」
なんて、どこまでも女性らしい、惹かれるタイトルばかりだ。

良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そんな物差しで測るのではなく、心と身体を自分に委ね、自分で波を掴んで泳いでいくのが人生だと、小手鞠るい作品は伝えているような気がしている。
儚いような眩しいような、それでいて強い女性が佇んでいる小説のひとつひとつに葛藤と愛があるので、美しいのにどこまでもリアルだ。

30代が近づいた今だからこそ、改めて読みたい作家のひとり。
彼女から、人生の捉え方をまた、学びたい。

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