未だマサラタウンにいる空っぽな私の言い訳


社会人になってからきづいたことがある。
私はいわゆる当たり障りない世間話が苦手だ。

例えば、周囲の友人が必ず知っている有名なお菓子屋さんとか、ちょっといいチェーン店の名前、コスメブランドの名前や観光地や地域の特産品、世代の歌手の名前や曲を私は知らない。

友人が買ってきてくれたお菓子に対し「このお菓子ってどこどこのだよね、ここ美味しいよね!」みたいな機転が効かないのだ。

「〇〇ってXXだよね」に至る経験値が全くない。
みんなにとって当たり前の話題についていけないのだ。


言い訳をさせて欲しい。

私が物心ついた頃には、両親は家庭内別居状態だった。
母親はたびたびヒステリックになり、姉含め私たちに当たり散らした。

何事も母親の気分次第。

「洗濯干しをやったら遊びに行っても良い」と言われうきうきでこなしても、
次の日にはそんな約束は無効になっているのだ。

常に母親の様子を伺っては部屋のクローゼットに隠れ、
シリーズで1冊しかない漫画を繰り返し読んで一日を凌ぐ。

当時は無意識的にそれが当たり前だと思っていたかもしれない。
いま振り返ると精神的に健康的ではなかったと思う。
よく病気にならず学校通えてたよなあ…

きっと周囲の同級生とかは、学校帰りには地元のケーキ屋さんに行ったり、
地元に愛されている焼肉屋さんで家族団欒したりしていたのだろう。

大人になって一人暮らしをはじめ、やっと安心できる空間ができた。
親の気分で自分の世界を壊されたりしない。

でも、呪いの名残はまだ私の中にある。

精神的にも経済的にも自由になった私は、
古くからの友人(数少ない仲のよい友人)を家に招く機会も多くなった。
そんな中、昔話に花が咲くことがある。
そういう時に、やはり育ってきた環境に格差を感じることがある。

会話に出てくるお店の名前に記憶がないのだ。
聞くところ、昔からあるお店だそう。

きっと「普通の家庭」だったら日常の中にそんな小さな思い出があったことだろう。

世間話に限っての話ではない。
あらゆることに関して私は空っぽだ。

「普通」ですら憧れの域だった私は、「よりよくなる・する」という概念がなかった。
なにに対しても「なんでもいい」、諦めの速い無気力な大人になってしまっている気がする。

私の元々の気質、と言えばそうなのかもしれないけれど、
「心が安定する」意外のものの優先度が低いのは、育ってきた環境によるものだと感じている。
実際、私の周りも家庭環境がよくなかった人はそんな傾向がある気がしている。
大人になって「育ちの良さコンプレックス」を持つようになってしまった。


この歳にもなって「環境」のせいにしてみっともない。
そんなことはわかっている。

けれど、消化しきれずにいつまでも蔓延っている。

いつか、抜け出せる時は来るのだろうか、、

いつまでも他責でどうしようもない大人であることを赦してほしい。
(私は誰に赦してほしいのだろうか…)

誰に言い訳したいのかわからない、厨二くさい投稿でした。
最後まで読んでくださった方がいらっしゃったら、ありがとうございます。


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