痛々しさ×つよがり=美の極み~かすみ嬢の居場所(28)
「見ていて痛々しい」って、ある意味すごい褒め言葉。
「痛い」だと、露骨なまでの同情と軽蔑が過分に含まれていて、見下されてる感、満載なのに。「痛々しい」って音を重ねるだけで、それらの感情が一気に消えて、親愛感情とたぶん、守ってあげたいと思うような気持ちがそこには含まれていそうで。
痩せ姫にぴったり。
でもなんか、同情されるのはイヤだなぁ。
可哀そうって思われたくない。見下されたくなんてないから。
「痛々しい」には、同情や憐憫も入っているけれど、それ以上に親愛の情が含まれてるから好きなの。
そんなことをつぶやいたら「痩せ姫」の作者さんがブログで取り上げてくれた。
タイトルは「痛々しさ×つよがり=美の極み」
そのブログによれば――
「『痛々しい』は親愛感情と不即不離のもの」であり、しかも「その状況によっても増幅される」とのこと。一例として、体重30キロを切った痩せ姫さんが一生懸命テニスをする姿が挙げられていた。
ただでさえ「痛々しい」のに、そんな「つよがり」との相乗効果が「美の極み」へとつながるのだと。
この「つよがり」って言葉の使い方にシビれました。
痩せ姫って、外見は恐ろしく儚いけれど、その境地まで至れる意志の強さといい、行動力といい、すごく芯は強いのよね。その今にも消えそうな見た目の儚さと、精神面の強さのギャップに惹かれます。前者寄りのものが「痛々しさ」、後者に寄ったものが「つよがり」なんだろうな。
もちろんその精神面の強さは、脆さにもなりうるし、それがために生き難いのだと、かつ、希少なのだということは、最近実感しています。
話は変わって。
私は儚さを綺麗さだと感じているけれど、それとはまた違った意味で凸凹を触ることができる骨が好き。
儚さとは真反対の、硬さ、揺るぎなさ。触ってて安心する。ここに、ここに私はいるって感じるの。
透明になりたいって願いとは、矛盾する気持ちだけど。
作家とか画家とか、自分の手で芸術を生み出すものに憧れてきました。それら全てを諦めたけど。
今、痩せって芸術を、もしかしたら自分が体現できるかもしれないってその可能性があって。もうそれに夢中になりそうな。
うーん、頭がぼーっとしてうまくまわらなくて表現したい言葉がでないことに、きちんと動かないことに、もやもやするさいきん。