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「ぽらんの恋」(6)

家に着くと懐かしい匂いがした。木のどことなく湿った匂い。玄関にはぼくのお気に入りのアヒルのおもちゃが落ちていたり、テーブルの下にはボールが転がっていた。夕方までこの家の縁側で、ぼくはひなたぼっこをしながら野原の帰りを待っていたっけ。それが今では何だか遠い日のように思える。

「確か、この辺りに川があるはずなんだけど」               野原は奥の部屋から地図を広げながら持ってきた。ぼくは地図を覗いた。 けれども、あの住宅街のところには川は流れていなかった。      「おかしいな、ぼくも確かにあの川沿いの桜のトンネルを見たんだけどなあ」野原の顔が急に暗くなった。そして、地図を閉じると、ポツリと言った「もう、ぽらんに逢えないかも」 「どうして?」           「何だかそんな気がするの」 「そんなことないよ」          「わたし、きっと夢を見ていたんだわ。本当にあの桜のトンネルは存在していたのかしら? わたし、ぽらんを見失って気づいたら、銀色の橋の下にいたの」 「銀色の橋?」 「ええ」                  「そうだ。きっと、そこだよ。そこへ行けば見つかるかもしれない。ぼくも見たんだよ。ちゃんとこの目で。君が見たのと同じあの桜のトンネルを。 夢なんかじゃない。信じるんだよ」                   泣き出しそうな野原の手を引っ張って、ぼくは立ちあがった。     「信じる?」                           「そう。犬ってさ、どんなことがあっても飼い主のこと、忘れないんだよ。 いつでも、どこでも、どんな時でも。大好きな君のこと、いまでもきっと、恋しく思っているよ…。あの桜のトンネルは、夢なんかじゃないさ」    確かにぼくはここにいる。野原と一緒に今、ここにいる。でも、犬のぼくでなく人間の姿で。 これは夢なんかじゃなくて奇跡なんだ。      「とにかく、行ってみよう。きっと何かがわかるかもしれない」     玄関を出ると、野原がガレージから自転車を引っ張って来た。       「この方が速いと思って」                        ぼくは目を丸くした。自転車に乗るなんて生まれてはじめてのことだ。まともに乗れるかどうかも分からないのに、その上、二人乗りをするなんてぼくにとっては神業だ。でも、自転車に乗れないなんて、みっともなくて言えなかった。もう、こうなったら乗るしかない。ぼくは自転車のハンドルを持つとサドルに座った。                         「ああ、神様、どうか自転車に乗れますように!」心の中で祈った。   野原を後ろに乗せ、ぼくは意を決した。                「よし、行くよ。しっかりつかまって」                緊張しながら、大きく右足のペダルをゆっくりと踏み込んだ。すると、真っ直ぐに自転車は滑るように進んだ。あとは偶然、ペダルに左足が乗っていたので、自転車は自然と走りだした。はじめの数メートルはバランスをとるのが難しくて、ハンドルをとられて危なかったけれど、すぐに慣れた。   「やった!神様、ありがとう」                    ぼくは感謝した。いつもの歩き慣れた道を、ぼくたちは自転車で走った。 街の雑踏を走り抜け、夜空に浮かぶ満月の光を受けて、ながくゆるやかな坂道をどこまでも下っていった。背中に野原がもたれている。 振り向くと冷たく心地よい風を頬に受けながら、彼女は目を閉じていた。       このまま野原を乗せて、ぼくは風になってしまいたかった。自転車はどんどんスピードを上げ、風を切って走る。 

今、ぼくは野原と初めて出会った場所へ行こうとしている。もし、そこへ行ってあの桜のトンネルを見つけてしまったら、すべてが終わってしまうような気がした。 桜の花が散るように、すべてのことには必ず終わりが来る。それは悲しいことだけれど、この一瞬のしあわせな記憶があれば、もうぼくはそれでよかった。

野原の耳元でラムネ色のピアスが揺れていた。ぼくはさっきよりも力強くペダルをこいだ。                           「着いたよ」                            銀色の橋の下で自転車を止めた。野原は自転車を降りると、土手の方へ駆けて行った。「ぽらん、ぽらん」 野原は辺りを探し歩いた。

 あの寒い冬の夜のことをぼくは思い出していた。ダンボールの四角い真っ暗闇の中で、凍え死にそうだったぼくを、マフラーで包んで温めてくれた野原。野原の腕の中に抱かれて嬉しくてなんども彼女の頬を舐めたぼく。  微笑んでいた野原の目に、だんだん涙が溢れてきて、みるみるうちに泣き顔に変わっていったあの時の涙。               

「ここにもいない。ぽらん、どこ? 一体、どこへいっちゃったの」   野原は土手に座り込んでしまった。そして、心細そうに月を見上げた。  銀色の月は何も言わずにそっと彼女を照らしている。          「そんなに気を落とさないで」                    彼女の目に映った月が、涙になって濡れ落ちて来た。          遠くでサイレンがなっている。                    「みんな、私の前から愛する人がいなくなっていく…」         野原は消えそうな声で言った。                    「ぽらんとここで出会った日、すごく寒い冬の日だったの。それも夜でね。その日、私の恋人が死んだの。バイクの事故で。突然のことで、連絡をもらってすぐに病院にかけつけたけれど、もう間に合わなかった」      野原は遠くの暗闇を見るように言った。                 「わたし、あの家にひとりで住んでいるの。小さいときに両親が離婚して、母はそのあと病気で亡くなって、一人っ子だった私は、あの家で祖母に育てられたの。父は離婚してから、アメリカへ移り住んだことを祖母から聞いて一度だけ会いに行ったわ。けれども、彼は会ってくれなかった。もう、再婚して子供もいるらしい。きっと、自分の幸せを守るのに精一杯なんだと思う。大好きだった祖母も、高校三年生のときに死んでしまって、本当に私は一人ぼっちになってしまった。高校を卒業して、フリーターをしていたときに、ある人を好きになって。近くの大学に通う学生で、あの家で一緒に生活するようになったの。彼に出会うまでの私は、何一つ心がうごかなかった。でも、彼と出会って、私は変わったわ。彼がその凍り付いていた心を溶かしてくれた。そして、やっと私は歩きだすことができたの。ちゃんと大学にも行こうとしたし、やっと自分は生きていると実感することができた。   短い間だったけれど、彼と一緒にいられてとても幸せだった。祖母が残してくれたあの家は、犬が大好きだった祖母や彼と暮らした大切な場所…」  

 あの古い大きな家に流れている時間。ぼくは縁側から見える大きなさるすべりの木や、居間の柱にかかっている古い柱時計、それに時折、大きな音をたてて回り出す冷蔵庫を思いだした。他にも古くても愛すべきものがまだ沢山あった。ぼくはそのひとつひとつをとても懐かしく思った。

「でも、彼が死んだ日、家に帰るとそこは彼の抜け殻だった。 あの家にはあまりにも思い出が詰まりすぎて、そこにはいられなかった。どこにいても彼の気配がして、一体、どこへ身を置いていいのかわからなくなって、思わず家を飛び出したの。一日中ずっと街をさまよい歩いていた。何時間も、何かに取りつかれたように。でも、その街の人混みはドンドン私を孤独にさせたわ。こんな大勢の人が街には溢れているのに、みんな見知らぬ人ばかり。誰もかれもただすれ違っていくだけ。私がここにいることなんて誰も知らない。本当に自分は一人ぼっちなんだということを思い知らされた。誰かの温もりに甘えたかった。思いっきり誰かの胸で泣きたかった。ほんの一瞬でもいいから、救われたかった。大勢の人混みの中で孤独を感じるのに耐えきれなくなって、気が付くと街の外れのこの橋のところに来ていたの。夜は人気のないこの銀色の橋の上を通りかかったとき、子犬の泣き声が聞こえてきて…。それがぽらんだった。   

ダンボールの中にたった一匹だけ入っていて、寒さと孤独に震えていたわ。小さいぽらんを抱き上げると、私の顔をね、一生懸命に舐めるの。小さい体をいっぱい使って、嬉しいうれしいって言って。私は抱きかかえたその重さと温かさに救われたって思った。私はぽらんに救われたの。でも、そのぽらんも私のところからいなくなってしまった…。どうして?どうしてみんな私の大好きな人たちが…。そしてまた、ぽらんまで私のそばからいなくなってしまうの?」

野原の心の中にある哀しみ…。                     ぼくはどんな事があっても、野原を守りたいと思った。         「ぼくがそばにいる。ぼくじゃだめ?そんな悲しい目をしないで」    「どうして? どうして、あなたはそんなにやさしいの?」        ぼくは何にも言えなかった。立ち上がると、ぼくは小石を拾って川へ投げた。小石は四回ほど川面を蹴って暗闇に消えていった。

「行こう、ぽらんを探しに…。きっと見つかるさ! 君の言っている桜の トンネルが見つかるまで、いっしょに探すよ。約束するから」         そう言って、野原の手をひいて彼女を立ち上がらせた。         「さあ、元気を出して」                        ぼくは再び野原をのせて、自転車を走らせた。街灯もない真っ暗な土手を、どれくらい走っただろうか。突然、目の前に白銀の桜のトンネルが現れた。「あったよー! ねえ、あれだよ。桜のトンネル」              ぼくは興奮して、大きな声で叫んでいた。野原はぼくの背中から、顔をだして前方を見た。                           「すごい、そう、あれよ。夕方、私たちが見た桜のトンネルだわ」    そう、僕たちが見た桜のトンネル。嘘じゃなかったんだ。ぼくは心の中で思った。

桜のトンネルが近づいてくるにつれて、ぼくの心は、だんだん言いようのない不安と淋しさに襲われた。けれども、ぼくはそれを打ち消すかのように力強くペダルをこいだ。                          桜のトンネルの入口には、あの煉瓦色の眼鏡橋があった。暗闇に白く浮き立つ桜の花々。そして、地面は花びらの絨毯で覆いつくされていた。    眼鏡橋に自転車を止めると、ぼくたちは肩を並べてゆっくりと桜のトンネルを歩いた。その美しさはぼくの想像を遥かに越えていた。何だか踏み込んではいけない聖域に迷い込んでしまったようだ。 野原も何かを感じているようで、しばらく僕たちは、桜の魔法に取りつかれていた。     

野原は小さくぼくの耳元でささやいた。「あなたはぽらんに似ている」  ぼくは立ち止った。「ぽらんに似ている?」               彼女は頷いた。ぼくが黙っていると、野原は続けて言った。「あなたは何も言わず、ずっと私の側にいてくれた。そして、私を励ましてくれて、信じることを教えてくれた。ぽらんもそう。私の辛いこと、哀しいこと、いろんな思いを言葉を越えて、やさしく受け止めてくれるの」          ぼくは今なら、自分がぽらんだと言う事が言えそうな気がした。     「犬も人に恋をするんだよ」                     野原はぼくの目をじっと見た。その時、強い風がぼくたちの間を駆け抜け、一瞬、時がとまった。 そして、野原は微笑んだ。          「その笑顔、忘れないで。きっと、きっと君は幸せになれる」       ぼくは自転車の後ろに野原を座らせると、Gパンの後ろに突っ込んであった赤いバンダナを取り出した。そして、それをカチューシャにして野原の頭のてっぺんに蝶々結びをした。                     「ほら、もう一度笑って」                       野原はぼくを見て、あのオムレツの女の子みたいな笑顔で笑った。    そして、僕たちはキスをした。たくさんの桜の花に見守られて…。


<エピローグ>

 これは春のいたずらだったのかもしれない。              大きな桜の木の下で、ぼくは冷たい朝露の匂いで目が覚めた。起きて伸びをしようとして、ハッと気づいた。ぼくは犬のぽらんにもどっていた。隣を見ると野原がすやすやと静かに寝息をたてて眠っている。         「夢だったのか」                          そう思ってもう一度、野原を見ると、彼女の頭のてっぺんに赤いバンダナで結ばれた蝶々結びが乗っていた。夢じゃなかったんだ。 ぼくはたまらなく嬉しくなって、まだ寝ている野原の顔にキスの攻撃を浴びせた。     「キャーッ、くすぐったーい」                     野原は、ぼくを見て抱きついてきた。                  「ぽらん、逢いたかった!」                     ぎゅっと抱きしめられると、大好きな野原の匂いがした。ぼくは幸せだった。大きな桜の木の下で、ぼくはいつまでも野原に抱きしめられていた。 その僕たちをやさしく包むように、透き通る春の風が通り過ぎていった。


                       おわり








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