神仏習合の面影Vol.3 北野天満宮 「天神さん」
京都で「北野の天神様」「天神さん」「北野さん」と呼ばれ親しまれてきた「北野天満宮」(終戦までは一時「北野神社」)。菅原道真公(菅公)をご祭神としてお祀りしている全国約1万2000社の天満宮・天神社の総本社です。
京都市上京区にある神社で、平安末期に格式の高い神社として二十二社(下八社)の一社にも名を連ねています。
明治期に制定された旧社格は官幣中社(北野神社)で、
現在は神社本庁の別表神社となっています。
北野天満宮の現在のご祭神(右側)ですが
江戸時代まで一緒に祀っていた本地仏(左側)は
【ご祭神】 【本地仏】
菅原道真公 十一面観音菩薩
[相殿東座] 中将殿 不動明王 及び 阿弥陀如来
[相殿西座] 吉祥女 毘沙門天 及び 吉祥天
以上の通りです。
そして江戸時代まで「天神さん」は松梅院、徳勝院、妙蔵院の祠官三家の寺をはじめ 約40近くの寺と多くの僧侶によって守られてきたのです。
僧侶が勅命で作った御霊信仰の寺?
北野天満宮は947年に、当時北野にあった朝日寺(現・東向観音寺)の僧侶 最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺としたことから始まります。
そして、曼殊院を開いた門跡の天台宗僧侶の是算(ぜさん)国師が菅原家の出であったことから是算が初代北野天満宮の別当職に任じられたのです。これ以降、曼殊院門跡が北野別当職を歴任することとなったのです。
ちなみに「別当」とは、江戸時代まで神社を取りまとめる宮司より上位の監督僧侶のことです。むかしは僧侶が宮司を兼ねていた場合もあり「社僧」とも呼ばれていました。
令和に復活した神仏習合の儀式「北野御霊会」
北野天満宮の「北野御霊会」は、神道と仏教の信仰が結びついた神仏習合の儀式で、国の安寧や疫病退散を願って、平安時代の987(永延元)年、一条天皇の命により勅使を遣わせた祭祀(勅祭)、「北野祭」 を起源とします。それが、今年の令和6年9月に北野天満宮で天満宮の神職が比叡山延暦寺の僧侶と国の安寧を願う神仏習合の儀式、「北野御霊会」を行い、能登半島地震からの復興などを願いました。
神仏習合の時代の儀式やお祭りがもっともっと復活すると良いですね。それこそ、1300年続いた真の日本の姿だと思います。
菅原道真公は仏教徒だった?
上述の東向観音寺(旧 朝日寺)のご本尊は、菅原道真公御作の十一面観世音菩薩だそうです。菅原道真公と言えば、平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家と紹介されていて、仏教という寄りは江戸時代に学問=儒学の神さまのようなイメージでしたが、観音様をお作りになるほどに信心深かったのですね。
道真公が襟元に掛けて持ち歩いた
「菅公御襟懸守護の仏舎利」
また、天満宮の内陣には、「御襟掛舎利(おえりかけしゃり)」と呼ばれる仏舎利が納められたと記録されています。
菅原道真公は13世 天台座主の僧 尊意(そんい)から譲り受けた仏舎利(お釈迦様の骨など一部)をつねに襟に掛けて護持し、大宰府で没したのち、内陣に奉迎させたと言われていました。言い伝えでは、社壇の後門に舎利塔が安置されていて、この仏舎利こそ北野天満宮のご神体、ご祭神だったとも言われています。
なお、下記圖の中央に北門として「舎利門」の存在が確認出来ます。また、各ご祭神と本地仏がしっかり記載されていますね。神仏習合の姿がありありと伝わります。
廃仏毀釈で「天満宮」が「神社」に強制的改名
しかし、御一新で明治政府から神仏分離令(太政官令)が出されると、1868年(明治元年)3月に北野天満宮の別当職を廃止し、松梅院、徳勝院、妙蔵院の祠官三家も廃仏毀釈により廃寺となりました。北野天満宮にあった多くの仏堂は解体されて、経王堂は大報恩寺(千本釈迦堂)に規模を縮小して移築され、鐘楼は大雲院に移築され、多宝塔は扉の一部のみ地蔵院(椿寺)に移されたそうです。
さらに明治政府は1871年(明治4年)に官幣中社に列するとともに「北野天満宮」を「北野神社」と改名させました。「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためだそうです。旧称の「北野天満宮」の呼称が復活したのは、戦後の神道国家管理(国家神道)が解けた後になります。
「廃寺と別当及び社僧の還俗 復飾」
また、神仏分離令で北野天満宮を宮仕えしていた寺が廃寺になりました。その数は先の松梅院、徳勝院、妙蔵院を含め36寺になります。(貴重な資料を見つけました。下表を参照してください)
さらに復飾(ふくしょく)と表示されていますが、還俗の事で、僧侶などの出家者が俗人に戻ることを意味します。これは神仏分離令で強制された措置なのでした。僧侶には、苗字がありませんでしたが、復飾後に家名として苗字を与えられたようです。(前 後の字はたぶん逆で誤表記だと思います)
また、北野神社になって初代宮司に奈良華族の男爵で興福寺養賢院住職であった元僧侶が神官に転職して、八坂神社宮司と兼任で就任したそうです。
日和見な人はどの時代にも居るようです。
日本の文化大革命だった廃仏毀釈
「明治維新神仏分離史料」巻上
鷲尾順敬が記載した「北野神社神仏分離調査報告」の中に廃仏毀釈前の姿が明確に報告されていますので紹介します。
江戸時代の北野天満宮はどれだけ霊験あらたかな場所だったのでしょうか。これらのおおくの仏像などの文化財の多くは廃仏毀釈で破壊され紛失してしまったのです。本当に日本で起こった文化大革命、宗教破壊運動は残念でありません。
国家神道の神仏習合の塗りつぶしが始まる
明治になると多くの「神社」の由来記が作成され今までご説明した神仏習合の姿が無かったかのごとき文書が発表されています。
明治になって出来た「北野神社」の由来記は「明治政府が作りました」で終わるはずなのですが、一事が万事このような、新しい嘘の歴史が上塗りされ、いろいろな改竄が明治になって行われたのです。
これも由来記の一部ですが、「北野神社」はもちろん「北野天満宮」についての記載が無い有名な書名を引用書目として羅列している点など悪意を感じます。(個人的感想)
また、とても詳しく資料を求めてあるサイトをご紹介します。歴史逍遥『しばやんの日々』 しばやんさんの記事はとても参考になります。ぜひ、お目にかかりたいです。
その他参考
京都の伝統文化も禁止した明治政府
京都府は明治5(1872)年に「盂蘭盆会ト称シ精霊祭等停止ノ事」を通達し、「送り火」を含む盂蘭盆会を禁止したのです。明治16(1883)年に解かれるまで大文字が灯されることはありませんでした。これは、廃仏毀釈に積極的だった長州藩士だった当時の京都府知事 槇村正直の明治政府へのごますりだったとも考えられました。
このように神仏習合を考察するといろいろな明治時代以降の日本の闇がボロボロ出て来ます。
失った日本を取り戻すためにもっともっと取材や考察を続けたいと思います。皆さまからの質問やリクエスト 応援をお待ちしております。
今回もありがとうございました!