”マイノリティ”の経験が”多様性”を考えるきっかけになる。
友達からこういう報告を受けたら、どう思うだろう?
多くの人は、それを”良いこと”と判断し、「おめでとう!!」とか「お幸せに!!」といった声掛けをすると思う。
ただ、中にはそういった前向きな反応をしてくれない人もいる。
それどころか、批判的な反応をしてくる人だっているかもしれない。
そう。
ここで本当に考えたいのは、「結婚報告を聞いた時にどう思うか」ではなく「結婚報告を聞いたのに微妙な反応をしている人を見た時にどう思うか」だ。
さて、事実として”世間一般”の価値観では、結婚は「おめでたいこと」とされている(その時点で、もはやマーケティングやブランディングに踊らされていると言う人もいる)。
僕自身も、友達から結婚報告を受けると「あぁ、そうなんだ。それは良かったねぇ。」と、何となく”良いこと”として捉える節がある。
しかし、結婚に対して批判的な人、懐疑的な人というのは一定数いるわけで…そういう人を見ると、どう思うだろうか?
「人の幸せを喜べないなんて、可哀想な人」
「妬んでるだけの、ただのイタイ奴だろ」
そんな風に感じる人もいるかもしれない。
でも、それって「結婚は良いことだ」と思っている自分が正しいという前提で相手を見てるよね。
ここでいう”世間一般”の価値観とは、そう考えている人が多い、いわば「マジョリティ(多数派)」の考え方だ。
でも、何事も少ない方…つまり「マイノリティ(少数派)」は存在するわけで、「マジョリティじゃない(”世間一般”の価値観に反している)から間違っている」と判断してしまうのは、ちょっと危険だ。
と、最近感じている。
実際問題、最初の「私事ですが、この度結婚することになりました。」という文面だけでは、何とも言えないはずだ。
だって、そもそも結婚報告をしている当の本人が「めでたい」とか「幸せ」とか感じていないかもしれないし。
これは「事実」の報告であって「感情」の情報はゼロだから、もしかしたら望まない政略結婚の悲痛の叫びかもしれない。
もしそうであれば、結婚報告を聞いて「おめでとう!!」ということは、一種の嫌味になってしまう(まぁ現実的にそんな可能性は極めて低いだろうけど)。
そんな状況であったことを後から知ると「人の幸せを喜べないなんて、可哀想な人」と上から目線で言っていた人の方は、バツが悪くなると思う。
だから、とにかくマイノリティ側の人を勝手に「判断」して、一方的に悪いように見てしまうのは良くないよねってこと。
人間は、油断するとすぐ勝手に「判断」してしまう。
と、ブッダも言っている。
…これは、ブッダの教えとして「反応しない練習」という本に書かれていた。
ここまでの「結婚」の話だと、ちょっとイメージしづらい人も多いかもしれないけど、例えば「宗教」に関してだったらどうだろう。
例えば、熱心なキリスト教徒の人に突然「なんでお前は教会に礼拝しに行かないんだバカヤロウ!!」って言われたら、どう思うだろう?
自身もキリスト教徒であれば話は変わってくると思うけど、多くの日本人はキリスト教徒ではないため「そんなこと言われても、別にそういう習慣がないだけだし…」ってなるのではないだろうか。
ただ、その感覚は”世間一般”の価値観においては「マイノリティ」だ。
だって、世界にキリスト教徒は約25億人もいるんだから。
日本人の人口よりはるかに多い。
僕が今住んでいるルワンダにおいても、この国の”世間一般”の価値観では「教会には定期的に礼拝に行くべき」なのだ。
でも、だからといって僕が毎週日曜日に教会に行かないことをルワンダ人にとやかく言われる筋合いはない。
日本で生活していると、自分が圧倒的マイノリティ側に立つことなんて、なかなかないと思う。
しかし、ルワンダ、アフリカ…ひいては海外で暮らしていると、自分がマイノリティ側に立つことなんて、ざらにある。
僕の場合、そうやって自分がマイノリティ側に立つ経験をしたからこそ、普段自分がマジョリティ側にいる環境の中で、無意識にマイノリティ側を批判的に見てしまっていることに気付けた。
相手だって、それを批判される筋合いはないはずなのに。
”世間一般”の価値観だけを見るのではなく、世の中には色んな価値観があるということを知る。
その上で、思考停止で”世間一般”の価値観に染まるのではなく、”自分自身”の価値観に基づいて生きていきたい。
自分は自分、相手は相手。
自分と相手の立場が違ったとしても、それを「良い/悪い」と判断しない。
でも、無意識にそういう見方をしてしまっていることがある、という事実を認める。
実践するのは口で言うほど簡単ではないだろうけど、結局は”多様性を認める”ということに収束するのかもしれない。
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