生命の喜びとカネのかかる俗世・その1
コロナ騒動初期、ステイホーム!と叫ぶ人たちの中に、元からステイホームしてても生活に困らない専業主婦の方々が結構いたことが、私の感情をかなり刺激してくれていた。
安全な場所から言いたいこと言ってるけどよ、あん!?ステイホームしてたら俺、明日のメシねんだよ。ああん!?
と大いに荒れ狂った私はしかし、そもそもコロナの件がなくたって前々から抱えていた葛藤に、目を向けてみる時が来たと感じた。
自分の食い扶持を自分で稼いでいることへの誇りはある。誰かに養われる人生を選ばなかったのは自分だ。だけどどこかで、働かなくても暮らせる人たちへの羨望もずっとあった。
その恨み節、その拗ねを、ずっと抱えたまま生きててもロクなことはないよなと、どこかで分かってはいたのだ。
羨ましいならやってみればいいじゃない!?「働かない」をさ。
そうは言ってもどうすんだよ、明日からのメシをよ!!という怨念渦巻く言い訳を私は投げ捨てることにして、確か残金リアルに1万円とかだったはずだけど、働くのをやめてみた。
私は自由だ。今日から何してもいい。お金のかかることはできないけど、毎日の24時間をどんだけでも好きに使っていい。さあどうぞ、、!というのを体験したかったのだ。
お金が使えないとなると、体一つでできる遊びが主になる。
実はかつて「病気と戦う人生」に終止符を打つ覚悟を決めた時、じゃあ私は何がしたいの!?と自問自答したら、頭がひねり出してくる無数のフェイクの願望に翻弄され、どれもこれも実行してみたら1ミリも楽しくなく、もう、腹の底から本当にやりたい!!が湧いてくるまで俺は絶対に動かないからな!!!とブチ切れて本当にただひたすら座っていた数日間があった。10年以上前のことだ。
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