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今日は今日、明日は明日の正解
なんだかうまくいかないな~と思うことがここ最近続いていて、なんとかなんとか気持ちを前向きに、そんなこともあるさ、と自分を励ましながら日々日々過ごしていたけど、今日ついに、家に帰ったらポロポロ涙が止まらなかった。ポンポン泣いた。
どおりで今日は、疲れてるのに風にあたってどこまでも歩きたいような気のする帰り道だった。本当はもうちょっと前から、危ないな自分、とうすうす感じていたけれど、毎日おしりをたたいてたたいて踏ん張って、もう今日は限界の日だった。
最近は全然定時で帰れていなかったし、自分は大丈夫と思ってやった作業が間違っていた、とかうまいこと連絡がとれていなかった、みたいなことが多くて、別に直接的に誰かから文句を言われた訳ではないけれど、そういう諸々が重なって、心と身体にじわじわボディーブローのようにしみこんできていたのだろう。
昔からよく泣く質だったけど、少し前までは人前で、たとえ家族の前でも、ボロボロと泣くことを自分が自分に許していない感じがあったし、「そんなことで泣くなんて」と誰よりも自分で自分にきつくあたることも多かった。
だけど、信頼している人の前や1人でいるとき、自然と流れるままに涙を流すことの健全さに気付いてからは、むしろ「好きなだけ泣けばいいよ、涙を抑えて身体の中にため込んでしまうより、吐き出した方がよっぽど健康的だよ」、と自分に優しく言えるようになった。
あまりにも涙がとまらないときは、自分でも「私大丈夫かな?」と心配になるけど、出し切ってしまえばもう大丈夫。今のところ、出るだけ涙は出した方が後腐れなくていい気がしている。
最近、ものすごくやる気なさそうに働いている人と、ものすごく一生懸命に働いている人、という両極端な人を見かける機会が立て続けにあった。何度かその両極端な人たちと接していく中で、「もしかしたら今、この人たちはとてもしんどい人生の時期にいるのかもしれない。だけど、どうせ働かなきゃいけないんだったら、同じ人生の時間を使うんだったら、つまらないな、と思いながらその時間を過ごすより、なんか面白いことないかな、どうにか喜んでもらえないかな、と何かを見出す意思をもって過ごす方が、自分の気持ちがいいよね」ということを強く感じるようになった。
正直に言うと、ほんの数か月前の私は、今の仕事、別に楽しくない、と思ってやっていた。
”本当にやりたいこと”の姿も存在もきちんと掴めていないのに、「これは私の”本当にやりたいこと”じゃないんだよなあ」と、自分の仕事をよりつまらなくしていたのはまぎれもない自分自身だった。
その頃の私は、自分の気持ちの持ちようで、仕事への向き合い方次第で、仕事が自分にどういう風に近づいてくるかが変わる、なんてことにはまるで気付けていなかった。もったいないことをしたなぁ、と今では思う。
でも当時は本気で、あぁこれは自分のやりたい仕事じゃないなぁ、なんで自分はこんな仕事やってるんだろうなぁ、と思っていたし、実際それでいいと思っていた。
今振り返ればとても間違っているように思える昔の思考も選択も行動も、その時の私にとっては大真面目に正解だったのだ。
時間が経たないと気付けないことは沢山あって、
きっとその時々で私が気付くべきことは、何らかの形で日常にちりばめられているんだろうな、と思う。
例えばそれは、誰かの前で不意に、どうしようもなく泣いて安心した経験だったり、両極端な働き方をする人を目にして自分が心で感じたことだったりするのだろう。
それまでに自分が抱いていた”正解”を変える出来事は、そこら中に散らばっている。そのサインに、日常にちりばめられたシグナルに、気付ける私でいたいし、自分の中の正解は時とともに変わるから、とりあえず今日は今日、明日は明日の正解を抱いて生きていきたい。