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脳の特性と役割~「障害」だけじゃない見方~

ふと、ADHDである自分の特性についてぼんやり考えてみた
特に結論を出そうとしているわけではないけれど、ふと気づいたことを少し書き留めておこうと思う。これは単なる個人的な観察だけど、もしかしたら何かの役に立つかもしれない。


みんな思ったより「変化」が嫌い?

これは10年くらい前から気になっていることなんだけど、Twitterが新機能を導入するたびに、ユーザーがTwitter上で呪詛をつぶやくんだよね。「Twitterが求めてないことばかりする」って批判はわかるけど、本当にそうかな?むしろ脊髄反射で過剰に反応してないかって思うことがある。

「リスト」「公式リツイート」「日本語タグ」「フリート」「スペース」など、新機能が出るたびに罵倒する人をよく見かける。好きじゃないのはわかるけど、批判の言葉がかなり語気強めで、「そんな言い方しなくても…」と思ってしまう。

これって、インフラ化した「昨日と同じように使えるはず」のものが変わることへの怒りなのかな。新しいものへの対応の煩わしさや「期待を裏切られた」感じからくるのかも。職場でもよくあるよね、PCやWindows、Officeのアップデートへの不満とか。

例えば、Windows 10の導入やOfficeのクラウド化のとき、僕は「すごい!ずっと新しくなるんだ!」って感動したけど、周りは批判的な人が多かった。変化を嫌う感覚って、案外多数派なのかもしれない。

僕は新しいもの好きで、そういう否定的な気持ちはほとんどない。自分がADHDであることを自覚してから、もしかしてこの反応の違いは、脳の特性と関係があるのかもと思うようになってきた

ADHDの特性が強みになることもある

実は、自分のADHDの特徴が今の仕事での強みになっている部分が結構ある。新しいアイデアを思いつきやすかったり、普通とは違う角度から問題を見られたりするのは、きっとADHDのおかげなんだろうな。

例えば、会議で行き詰まったときに、他の人が空気を読んでしまって言えないような提案をして、議論が活性化することがある。また、複雑な問題に直面したとき、他の人が見落としていた視点を提供できることもある。こういった経験を重ねるうちに、ADHDを単純に「障害」と呼ぶのはちょっと違和感があるようになってきた。

「理不尽に耐えられない」は短所か

それから、自分の中で一番強いADHDの特徴は「理不尽なことが我慢できない」ということかもしれない。例えば、職場で「前例がないから」という理由だけで新しいアイデアが却下されたり、明らかに非効率的なプロセスが「いつもこうだから」と継続されたりすることに、強い違和感を覚える

周りの人が「まあ、しょうがない」と受け入れていることでも、どうしても納得できないことがある。幼い頃は何でも理不尽だと思っていたけど、大人になってからは「一見理不尽に見えても意味があること」や「やむを得ないこと」もあることを知った。それでも、まだまだ「これっておかしくない?」と思うことは多い

でも、この「理不尽に耐えられない」という特性は、実は社会にとって重要な役割を果たしているんじゃないかな。だって、社会の問題に気づいて、それを変えようとする原動力になるかもしれない。例えば、環境問題や社会的不平等に対して声を上げたり、新しい解決策を提案したりすることができるかもしれない。つまり、一見短所にも見えるこの特性が、実は社会を良い方向に変える力になる可能性があるかも、ということ。

重度の「定型発達」という困難

最近、「重度の定型発達」みたいなこともあるんじゃないかな、と感じることがある。これは半分冗談で半分真面目な考えなんだけど、「他人に嫌な顔されないこと」が、優先順位の一番上にあるがために、かえって問題を起こしてしまうような人たちのことを指している。

特に日本社会を見ていると、「怒られない、嫌な顔されない、目立たない」ことが最優先事項である人がかなり多い気がする。例えば、明らかに間違っていると思われる指示でも、上司に反論できずに黙々と従ってしまうとか、自分の意見があっても周りに同調してしまうような場面だ。

この「重度の定型発達」とも呼べる状態は、実は大きな困難を抱えているんじゃないかな。自分の意見や感情を抑え込むことで、ストレスが蓄積したり、本来なら避けられたはずの問題を引き起こしたりすることもあるだろう。

一方で、そういった空気を読むことや同調圧力に従うことがどうしても耐えられない人は、往々にして「発達障害」とか「グレーゾーン」とか言われているような気がする。つまり、社会の「普通」や「当たり前」とされることに疑問を感じ、それに従えない人たちだ。

この観点から見ると、ADHDやその他の発達特性は、必ずしもネガティブなものではなく、むしろ社会の問題点を指摘し、変革を促す重要な役割を果たしているようにも思う。

相互理解の重要性

自分で書いてみて気づいたんだけど、よく「発達障害の人は定型の人には理解できない理由でいきなり怒り出したりするから難しい」って言われるよね。でも、逆のパターンもあるんじゃないかな。発達障害の人が「えっ?なんでそれでそんなに怒るの?」と思うようなこと

例えば、さっき話した新機能への反応とか、そういうのかもしれない。僕らにとっては些細な変化でも、他の人にとってはすごくストレスフルなことなのかも。これって、お互いの特性を理解することの重要性を示してるよね。

それで思うんだけど、「定型発達」と「発達障害」じゃなくて、「発達特性型」みたいな分類になったらいいんじゃないかな。それぞれに得意なことと不得意なことがあるよ、みたいな理解のされ方。既存のルールに適合しづらい「障害」の部分ばかり取り沙汰されて、「特別な人」として隔離されるんじゃなくて、みんながそれぞれ違う特性を持っているって考え方

さらに言えば、「発達に課題を抱える子」だけじゃなくて、みんな当たり前のように特性の検査を受けたりするようになったらおもしろいのにな。だって、「普通」とか「定型」ということ自体が曖昧で怪しい概念なんだからさ。

こういう視点で見ると、社会全体の多様性への理解が深まるんじゃないかな。ADHDやその他の発達特性は、必ずしもネガティブなものじゃなくて、むしろ社会に新しい視点をもたらす可能性があるってことだよね。

多様性が持つ意味

考えてみると、人間の発達の特徴を「ADHD」「定型発達」「ASD」みたいに分けるなら、それぞれが「狩猟型」「農耕型」「職人型」みたいな感じで、社会の中でそれぞれ重要な役割があるんじゃないかな。

例えば、ADHDの特徴である柔軟な思考や素早い判断力は、変化の激しい現代社会で新しいビジネスモデルを生み出したり、緊急時に迅速に対応したりするのに役立つかもしれない。一方で、ASDの特徴である細部への注意力や専門分野への深い洞察は、精密な技術開発や学術研究で重要な役割を果たすだろう。

だって、もしADHDやASDが本当に「生きづらい障害」だけだったら、長い時間の中でなくなっていってもおかしくない。でも実際にはずっと残っている。ということは、きっと社会にとって必要なものなんだろうな、って。この多様性こそが、人類の適応力と創造性の源なのかもしれない。

これからの社会への希望

結局のところ、「普通」や「定型」と呼ばれるものが、必ずしも理想的とは限らないし、そもそもその定義自体があいまいなんじゃないかな。むしろ、それぞれの特徴を理解して、お互いの違いを認め合える社会のほうが面白そうだし、健全なんじゃないかな。

「発達障害」とか「グレーゾーン」って言葉で人を分けるんじゃなくて、みんながそれぞれの特徴を知って、それを活かせるような社会になったら、もっといろんなアイデアが生まれて、みんなが生きやすくなるんじゃないかな。例えば、学校や職場で、個人の特性に合わせた学習方法や仕事のスタイルを選べるようになれば、もっと多くの人が自分の能力を発揮できるかもしれない。

同時に、「空気を読む」ことや同調することが過度に重視される社会システムそのものを見直す必要があるのかもしれない。多様な視点や意見が尊重され、建設的な議論ができる環境づくりが重要なんじゃないかな。

これは単なる思いつきで、深く考えればもっといろんな側面が見えてくるかもしれない。でも、こういう視点で社会のことを考えてみるのも、なかなか面白いかもしれない。みんなはどう思うだろう?こういった考えが、少しでも誰かの役に立ったり、新しい対話のきっかけになったりしたら嬉しいな。

注釈

※この記事は、自分のいくつかのツイートを元に、生成AIであるClaudeにまとめてもらって書いたもの。何度も手直しを要求したし、最終的には少し自分で書き直したりもしたけど、ほとんどをAIが考えて、バラバラなツイートをうまくまとめてくれた。すごい!


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文月 煉
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