驕らぬ天才 菊池寛~その知られざる素顔~
菊池寛は戦前を代表する文豪だ。
『恩讐の彼方に』『父帰る』『忠直卿行状』など歴史の教科書にも挙げられる作品を残している。
同時に実業家でもある。
もともとは記者であったが、その後は文藝春秋を興し、大映の社長も務めた。芥川賞・直木賞の創設者でもある
ビジネスにも芸術にも才能を遺憾なく発揮した彼の意外な側面をエピソード形式で紹介したい。
ガハハの漢
菊池寛はまるで映画版ジャイアンなのだ。人情に厚く義理堅い。
そんな性格を示すエピソードを3つ。
会計責任者の不正を許す
文筆家・渋沢秀雄は、菊池寛が文藝春秋社を設立した際に会計主任を一人紹介した。しかしあろうことか会計主任が会社の金を使い込んでいたことが判明する。彼を紹介した渋沢秀雄自身も責任を感じて、たいそう怒られることも覚悟したようだが、「三年も(彼を)使っていたのだから、こっちの責任だよ」と何事もなかったかのように許してくれた。
式場荒らしと化す?!
結婚の仲人として挨拶も豪快だった。
菊池寛はあるとき軽薄な新郎の仲人として挨拶をすることになった。その新郎は新婦とのお見合いの段階ではゆっくり関係を築きたいと言ったくせに、出会って間もないうちに女性をすぐにホテルに連れ込んでいたのだ。貞操観念の厳しい当時としては今よりもそういった事情には敏感だったろう。あげくには新郎はそのことを友人に吹聴していた。まだ結婚もしていない女性の性事情を友人に語るほど新郎はデリカシーがなかった。それゆえか、菊池は挨拶の場で「(新郎は「見合い結婚万歳」と白々しく言っているが)私は見合い結婚万歳ということは信じない」とスピーチし、式場が唖然となるなかその場を後にした。
マント事件
マント事件とは菊池が友人の罪を引き受けて退学処分を受けた事件だ。
菊池の友人に佐野という男がいた。彼は恋人とのデートで格好良く見せるためにマントを羽織りたかったが手元になかったため無断で知人のそれを持ち出してしまう。
その時は何事もなかったのだが、金に窮していた菊池と佐野はそのマントを質に入れてしまったのだ。もちろん当時の菊池はマントが盗難届の出されていたのを知るよしもなかったし、質に入れることを提案したのは佐野だった。その上、あろうことか菊池に実行役を担わせたのだ。
それで菊池は盗品を質に入れた疑いを持たれてしまう。私なら「嵌められた」と激怒するところだが、菊池は冤罪であるにもかかわらず彼をかばい退学処分を受け入れたのだ。
マント事件は有名で、彼の自伝的小説『無名作家の日記』にもその顛末がかかれています。
WikipediaやWEB記事でも詳細が載っているので気になった方はぜひ調べて下さい。
ズボラ?散髪に飽きて途中退店!
ある作家による目撃談である。あるとき散髪に来たところ、隣から「ああもう飽きたからいいよ」と言って刈り込みの最中であるのに、勝手に白衣を脱ぎ捨てて帰ってしまう男がいた。気になってその姿を追うと、なんとその弾性は菊池寛だったのだ。
彼のズボラエピソードは他にもあって、麻雀を打っている途中で胸がはだけてヘソまで見えてしまっていた。周囲から指摘されても全く気にしなかったという。
ゲーム実況に口出しおじさん
作家の井伏鱒二と永井が文藝春秋の編集部に行って将棋を指していた。菊池は対局を横から眺めながており、井伏が拙い一手を打つと「そんなのだめじゃないか」と言う。良い手を打つと「やるじゃないか。永井くんもそう思うよね」とわざと対局相手に口惜しがらせた。そうしていちいち井伏に助言をし、いい手を打つと永井を悔しがらせておちょくる。菊池は永井が悔しがる反応を見て楽しむというおちゃめな側面もある。
ビジネスの男
芥川賞の目的
菊池は芥川賞・直木賞の授賞式でこんなにもあけすけな発言をしている。
栄えある授賞式は受賞者の作家人生の大きな節目である。そのような場で「無理に書かなくて良い」、「会社の宣伝という目的は授賞式で果たされた」と言い切ってしまう。
ここまで割り切って話してくれるとなんだかむしろスッキリしますね。
芥川「エッッッロ」菊池「絵じゃん」
ビジネスを興しているだけあって、性格面でも実利的である。
ある時芥川が150円(当時の大金)もはたいて春画を買った。そのことを聞いた菊池はしかし、絵を見ることもなく値段を聞いて「芥川は馬鹿だよ。その150円で本物の女を購ったほうがよいよ」。
金額がいちいち細かい
菊池寛の作品を注意して読んでみてほしい。特に歴史モノではなく後期の大衆小説を対象に。すると、彼の作品では、なにかと細かく〇〇は✕✕銭というように記述されている。『三家庭』『貞操問答』などは特に顕著だ。
奢らぬ天才
~十を知りて一をも知らざる如くせよ~
菊池寛の意外とおちゃめだったり、大胆でズボラだったり、人情に厚かったりという側面を見てみると、いかに彼が親しみやすそうか感じられたのではないだろうか。
実際、同時代の作家らからは彼の実直で明るい性格が非常に受け入れられていたようだ。
ビジネスにも芸術にも才能を発揮した彼は天狗になることもなく、親しみやすく非常に謙虚だった。
ついこの前、菊池寛全集(文芸春秋)をめくっていると、扉にこんなメッセージを乗っけているではないか。
十を知りて一をも知らざる如くせよ
「一を聞いて十を知る」の逆である。
「十を知ったとしても一をも知らないぐらいに謙虚であれ」ということだ。
昭和の文化人が発した言葉と考えると、なんと謙虚なことだろう。
ちなみに「ナナ子」とあるのは菊池寛の娘である。
これに関連して、菊池寛の子孫で菊池ナナ子を叔母にもつ人のブログを発見した。ブログ記事によると、菊池寛は「十を知りて一をも知らざる如くせよ」と娘によく聞かせていたようである。
平家物語に「奢れるものも久しからず」とあるが、
菊池寛は作家としてもビジネスパーソンとして成功したが、「十を知りて一を知らざる如く」謙虚だった。
故に令和の今も彼の文学とその功績は輝きを失っていないのだろう。
その証拠に未だ芥川賞・直木賞は出版業界を牽引する力を持っているのだから。