耳鳴りはプレゼント。現実と幻覚を意図的にオーバーラップさせる自主トレが意外と楽しい
耳鳴りが最近よく聞こえる。
耳鳴りは物理的な音の感覚ではなく、神経のトラブルから聞こえるように感じる幻覚の一種だ。
他の人には聞こえないものが聞こえるのは、わずらわしい一方で面白くもある。
何にしても人間の外界を知覚する感覚の不確かさを心に刻み付けてくれる。
そんなとき、私は耳鳴りを現実の音だと思い、外界から知覚する音を幻覚だと思うということを試している。
なぜそんなことをするのか。
最初は耳鳴りにストレスを感じないようにするため、無視しようとしたが、聞こえるものは聞こえるので、心の中から消したようで消してないというもやもやが残っていた。
ならばと、むしろ耳鳴りを知覚音として積極的に受容する心構えではどうだろうかと試してみたのだ。
そうするとどうなったか。
音に意味づけをしたり、音が出ている原因を探ったりという脳が解釈する部分が弱まり、音を音として単純に聞くということが感覚の前面に出てきたのだ。
つまり、今、感じている感覚を評価せずに味わう。それだけ。
それが現実なのか幻覚なのかという二分法のジャッジはそもそもなくなる。
どちらであってもよい。
そうして得た感覚を味わう時間は、とりわけ貴重な時間になった。
覚醒しているのに、夢を見ているような感覚になるのだ。
これが単に夢を見ていることに比べて良いことは、
通常の現実感覚との出し入れが意識的に自由にでき、細かくシフトできること。
そういう考えを持つようになってから、耳鳴りが少し楽しくなった。
そして、耳鳴りを楽しんでいるうちに、耳鳴りはなくなった。
耳鳴りを追い求めて、耳に感覚を研ぎ澄ませると、小さく残っていた。
小さければ小さいほど、感覚を研ぎ澄ます必要があり、深くなる気がした。
何が現実で何が幻覚かわからない。
耳鳴りからはじまる知覚の構造理解は、より高次の思考においても同様の
アナロジーで理解できると捉えている。
つまり、自分が現実だと信じている思考は実は幻覚で
幻覚だと信じている思考が実は現実かもしれない
自分が信じているものが、他の人から見ると怪しさ満点ということは結構ある。引いてみれば、何が怪しいのかは相対化されるが、こと自分に置き換えてみると絶対化しているものはいくらでもある。
そんな引いた視点を忘れないよう、どんなときも引いた視点に立ち返ることができるようにすることにも役立っている。