わたしにとっての旅を見つける旅
学生時代から30歳頃まで趣味を聞かれたら「旅行」と迷わず答えていた。
非日常感の中で刺激や発見を与えてくれる旅行は自分の人生に欠かせないものとして大きな存在だったのだ。
今でも旅行は好きだし、落ち着いたら行きたいところは山のようにある。
ただあの頃から比べると旅と自分との距離が遠くなったような寂しさを感じていた。
そんな時にこの本に出会い自分にとっての旅とは何か初めて考えることになった。
0メートルの旅との出会い
出産してからは旅行がなかなかできず、行くとしても子供と楽しめるところという選択肢しかない。刺激や発見のためというより、子供と遊ぶ時間の延長という存在に代わってしまっていた。
いつか子供の手が離れたら自分の理想の旅先やプランをを選んで過ごしたいなぁと夢を見るだけ。
1回目の緊急事態宣言が出た頃、私は第三子の出産が近づきスーパーさえも行かずに家の中で過ごす日々を送っていた。
そんな時にこの本のことを知り、吸い寄せられるように予約の申し込みをしたのだ。
それからしばらくして待ち望んでいた本が手元に届いたものの、すぐに読むのはためらわれた。
というのもこの本で旅の擬似体験をする気持ちでいたので、落ち着いた環境でじっくりと味わいながら読みたかったから。
乳幼児3人が大騒ぎの我が家ではなかなか静かな時間が訪れない。
本棚に並ぶ0メートルの旅の文字を毎日眺めながらチャンスを待っていた。
一気に旅を味わうつもりだったけれど
ようやく訪れた自分だけの時間。
この時間に一気に読み切るつもりでいた私は「はじめに」の文章で気持ちが変わった。
そうして18歳。バックパックを背負って、初めてひとりで異国に降り立ったとき。そこで見えた雑多な景色、香辛料の匂い、不安な気持ちを、僕は一生忘れないだろう。その瞬間に、僕は旅の虜になったのだ。
この瞬間、私の過去の旅の記憶がぶわっと脳内に広がった。同じように初めて異国に降り立ったときの気持ちやスーツケースをひく感覚、これまで思い出さなかったささいなエピソードまで。
そして次の文章で自分にとって旅というものがどんな存在なのかを突き止めたくなったのだ。
スタートは家から1600万メートル。地球の果て、南極だ。そこからアフリカや中東を経て日本に至り、僕の住む東京の街から近所へ、そしてついには部屋の中にまで及ぶ。次第に近づく距離の中で、果たしてどこまでが本当の旅とは呼べるのだろうか。
この問いをきっかけに、一気読みではなく1日1箇所ずつ著者の旅に寄り添いながら自分にとっての旅とは何かを見つけてみようと考え直した。
著者の旅に寄り添…えない
まずは海外編。南極、南アフリカ、モロッコ、イスラエル、パレスチナ…
いずれも私の想像していた旅ではなかった。いや、想像していた旅行記ではなかったが正しい。
観光ガイドに載っているような場所はほぼ出てこないし、目的地の選び方も個性的。著者のインパクト満点の旅に触れ、私がこれまでしてきたことは旅ではなかったのかもしれないと心が萎んでいった。旅なんて人と比べるものではないのに私程度の経験で旅について語るなんて…と自信喪失していく。それほど著者の旅や向き合い方が魅力的だった。
これまで自分が経験した旅行と著者の旅の仕方の違いに全く寄り添えない…と戸惑い、読み進めるごとに振り回されていくわたし。
けれど著者とは全く違う旅先、旅の内容にも関わらず「そう、そういう気持ちを経験したことがある」と思うシーンが幾度もあるのだ。
自分の旅の概念が何度も壊され、作り直されていく。旅についてこんなにも想いを巡らせたのはこれが初めてでワクワクしている自分に気がついた。
そしてわたしのワクワクに一気に火が付いたのがこの言葉。
この滅びゆくツバメを見たい。
そう思った時点で、すでに旅は始まっている。
どこかに行きたい、と思ってプランを練り始めている時はそれはもう旅。行けないとしても見たい、食べたい、試したい、そういう気持ちを持つだけで旅は始まっている。作者の意図とは違うかもしれないけれど、これは旅行にずっと行けずにいた私にとって希望の言葉だった。今は行けないけれど、いつか実現できるかもしれないと思って思いを巡らせること。これまではモヤモヤするだけだったけれど、旅のスタートに立っていると思ったらワクワクに変わった。
次にやってきたのは国内編。
旅の魅力は距離に比例するか。著者の旅先との距離が縮むごとに、わたしにとっての旅がぼんやりと姿をあらわしてきた。
確かに辺境に行くほど理解の及ばない文化に出会えるし、予想もしないトラブルに巻き込まれる。(中略)異質な存在との遭遇が旅の魅力であることは間違いない。
そうそう、文化の違いはやはり大きい。知らなかったこと出会えたときの驚きや興奮が旅の醍醐味のひとつだ。
旅に出ると見聞きしたことのないものに、たくさん触れることができる。知らなかったということを知る。自分が普段生活している中では考えることのなかったことを考える。
そして何度も行った土地であっても、角度を変えるだけで新鮮な驚きに出会えること。
角度を変える。普段の生活とかけ離れた場所へ行く方が簡単に角度を変えられる。けれど意識的に自分で変えれば、どこにいたって同じような驚きや刺激に出会える。著者の角度の変え方に仰天しつつも、わたしも特別な行動をしたり時間を作らなくても旅で得られる体感をすることができるのだと心が躍った。視点を変えることが大切と知りつつ、旅についてそう思ったことがなかった。きっと他のことでもたくさんそういうことがあるのだろうな。自分の視野の狭さにも気づかされた。
エルサルバドル人は結局見つからなかったけど、その夜は僕たち自身がエルサルバドル人になった。
(中略)
行くことだけが旅じゃない。きっかけだってなんでもいい。名前がかっこいいという理由でも、太平洋を渡らなくても、エルサルバドルは僕の心に深く刻まれたのだ。
海外編の中でもこの旅は特に印象的だった。宮城県にでかけたのが宮城の何かを楽しむためでなくエルサルバドルに触れるための場所がたまたま宮城県たっただけ。そんな旅の仕方をしたことがなかったし、それを旅と思っていなかった。
“心に深く刻まれる”
そしてこの言葉が私の気持ちを揺らした。体験したものごと、気づいた何か、それらが自分に深く刻まれること。それがわたしにとっての旅をする目的のひとつなんだと気づいた。
知らないことを知った海外旅行
ここでわたしの過去の旅を振り返ってみる。
旅行にハマっていったたのは初めての海外旅行がきっかけだった。20歳の時。パリ・ロンドンのフリーツアー。
海外に行ってみたい。行くならオシャレな旅がしたいというミーハー心で選んだ旅先。近場の旅行を除けば旅のスケジュールや費用の用意など自分で作る旅は思えばあれが初めてだった。
初めての海外旅行。憧れていた街。到着すると日本と全く違う街並みや人々、目に映るもの全てが新鮮で数秒ごとに「わぁ」「かわいい」「すごい」を発していた。
けれどフランス語はおろか英語もろくに話せずに行った私たちは困ることの方が多かった。切符が買えない。行きたい場所にスムーズに行けない。メニューが分からない。予定していたスケジュールの半分もこなせなかった。
それなのにとてつもない充実感が味わえた
少しだけ覚えたフレーズで注文ができたときの喜び。地元の人が身振り手振りで教えてくれて、その人が日本が好きだとカタコトで話してくれたこと。間違った道に入ったおかげで見つけた可愛いお店。どれもこれも予定と違ったからこそ経験できたことだった。
目を覚ました時の見慣れぬ部屋、組み合わせの妙な朝ごはん、歩きづらい道路、読めない説明を見て恐る恐る乗る電車…
日頃からしている行動も旅先では全てが違ってちょっと面倒くさい。でもその面倒くささを乗り越えた時の満足度がたまらない。
ちょっとしたトラブルが起きれば起きるほど満たされていく感覚。予定していなかった物事との出会いができる旅行というものに惹かれていった。
謎ルールを捨てられたひとり旅
社会人になる少し前にひとり旅がどうしてもしたくなった。旅行といえば海外とそのころは決めていたが、一人で海外に行くのは勇気がなかった。そこで一人旅デビューの地として決めたのは香川県だった。目的は別にあったのだけれど1番私に影響を与えたのは何といってもうどんとの出会い。その頃は麺類に興味がなく、嫌いではないがわざわざ外で食べるのもね、という存在だったのだ。だけどはじめての一人旅で、いつもと違うことがしてみたくなった。香川といえばうどんは外せないらしいし一回くらい食べてみるかな、という気持ちでお店に入った。
これが私の食人生を変えた(ってくらいのおいしさだったのだ)
その旅ではうどんを何杯食べたことか。単純だけどそれ以来好物を聞かれたら、しばらくうどんと答える程になった。
それは一緒に誰もいなくて、いつもと違う旅先だったから自分の謎ルールをすんなり変えられたのかなと振り返って思う。この旅をきっかけにどこへ行くかが最重要項目ではなくなった。(自分を成長させるなら旅行先は海外でしょ!と思い込んでいた20代のわたし…)
旅先ではちょっと挑戦できる。自分的にちょっと思い切った行動ができる。それを繰り返して旅の始まりではできなかったことができるようになっている。帰ってくるといつもの自分と生活に戻るのだけど、見たこと、聞いたこと、食べたこと、失敗したこと、成功したこと。心に残ったそれは消えない。自分が大きく変わるわけではないけど、旅の経験が自分に残る。そして自分の一部になっていく気がする。それが楽しくて嬉しくて旅に出ていたんだな。
本と現実を行き来する旅
そしてついに0メートルの距離に到達。1日1箇所と決めた私の0メートルの旅はほんの数十分の毎日の楽しみとなっていた。
大抵はこどもたちが保育園に行っている時間を狙っていたけれど末っ子を抱っこしたり、側で遊ばせながら読むこともあったので短いストーリーでも本と現実を行き来することがあった。
エルサルバドルのサポーターで…おむつ替え。
エアロバイクを漕いでいると…授乳。
気が散るかと思ったけれど、それがそうでもない。著者のエピソードと文章の魅力に寄るものか一瞬でストーリーに戻れた。
その瞬間ふとこの言葉がやってきた。
どこにいても旅はできる
まさに今のこの状況ではないか。
目の前にいるのは生後6ヶ月の赤ちゃん。これは私の日常だけれど本を介して瞬間的に旅する著者の気持ちへと意識が飛んでいた。読書も旅じゃん!と今更ながら実感するわたし。
旅の疑似体験をするつもりで読み始めたのに、旅とは何か、なぜ旅が好きなのか、旅を介して何を求めているのかを考えることになるとは思わなかった。わたしから遠のいてしまったと寂しく思っていた旅が、実はすぐ近くにあったのだ。いつかまた遠くへ行って日常と全く違う文化に触れることもしたいなぁと思いを巡らす旅をしながら、しばらくは日常の旅を楽しもう。
素敵な本に出合わせてくれて、ありがとうございます。