書けば死なない
書いて、みんなに読んでもらいたいことがたくさんあるな、と突然思い立った勢いでnoteのアカウントを作って、この「死なないマガジン」シリーズもはじまりました。2週間(ほぼ)毎日投稿を続けてきて、一番最初に言いたかったことはかなり言えたような気がしています。
コメントも数名の方からいただいて、とても嬉しく感じています。私の言葉をどこかの知らない人が受け取ってくれて、その方の人生の糧のひとつになったと思うと、私自身も世界と見えないところでつながっているのだという実感を得ることができて、救われるような思いです。
文章を書くことは、私にとってセルフケアとしての側面もあるように思います。死なないために書いている、と言ってもいいかもしれません。
実は、この「書けば死なない」が、私にとって一番書きたかったことなのです。そのために、先に色々な話を実際に書いておく必要がありました。それが今まで「死なないマガジン」に投稿してきた文章です。
書くことの実践によって、私たちはいかに、できるだけ死なないでいられるのか。今回はそういう話をしてみたいと思います。ちょっと話がややこしいかもしれませんが、お付き合いいただければ幸いです。
書くことは時間を超える——鬱から抜け出すために
私はもともと文章を書くのが好きで、このnoteアカウントを開設する以前にもブログをやっていたし、プライベートな日記を書いたり、拙いながらも小説を創作していたこともありました。書くことを趣味としていた、と言うと少し気恥ずかしいですが。
しかし最近はいつのまにか、文章を書く機会があまりなくなっていました。こんなふうにいきなり連日のように文章を書き出したのは、退屈で仕方なくて耐えられなくなってきたからです。それはつまり、鬱でした。
退屈と鬱(と、さらに言えば依存症も)は密接な関係にあると私は考えています。それは、私自身の体やメンタルを観察して、何年も研究した末に至った結論です。だからそれはあくまで私の体についてのことなのだけれど、でもたぶん、みんな同じなのではないかなと思っています。
「退屈でも死なない」で主な考えは書きましたが、鬱については触れていませんでした。ここで簡単に言ってしまうと、私の考えでは退屈と鬱はほとんど同じです。
ほぼ確実に言えるのは、鬱であるときは必ず退屈しているということです。なにかに夢中なとき、人は絶対に鬱になりません。夢中でいられなくなったときに鬱になるのです。
つまり、退屈や鬱から抜け出すためには夢中になれるなにかを見つけなければなりません。そして、書くことはとりわけ、それに適しているのです。
なぜそう言えるのか、順を追って説明してみます。以前にも書いたように、退屈とは、現在に夢中になれなくなって、未来や過去という時間につながれてしまうことでした。
そして、未来のずっと先の突き当たりには、死が待っています。退屈は、私たちがはじめから死という運命につながれていることを直視させるのだ、ということも以前述べました。
さて、ここでこう考えてみます。私たちが退屈になって、そして鬱になるのは、「永遠」が存在しないからではないか?
人間はどうしても永遠を夢想してしまう生き物で、時間を超えることを願わずにいられません。しかしそれは決して叶わない願いで、その不可能性が、私を鬱にさせるのです。
だけど、ひょっとしたら、書くことによってそんな現実にほんの少しだけ抵抗することができるかもしれません。なぜなら、言葉は少しだけ時間を超えるからです。
私が読んでいるものは、過去のある時点の誰かが書いたものであり、その意味で過去からのメッセージです。そしてまた、私が書くとき、それは未来の誰かが読むことを想定して書いていて、その意味でそれは未来へのメッセージです。こうして、書くことと読むことによって言葉は時を超えるのです。
私は鬱のとき、「永遠は実在しない」「時間は有限である」という現実に打ちのめされています。そしてなにをする気力も湧かなくなってしまっているのです。こんな状態で、なにか夢中になれるものを探そうと思っても無理に決まっていますよね。
でもそのとき、私が書いたものだけが、私の人生の時間を超えて未来まで届くかもしれない、ということを思い出すのです。すると必ず「書き残さなければならない」と感じることが、なにかひとつは見つかります。
そして私はじっと固まっているのをやめて、iPhoneのメモ帳を開いて文章を入力し始めることができます。そうやって、書くことは私を鬱の穴の中から引き上げてくれるのです。
自分に問いかけること
文章を書くことは、私にとってセルフケアとしての側面もある、と冒頭で述べました。その点について詳しく書いていこうと思います。
文章を書くことには、自分自身との対話のような効果があります。言ってみれば、セルフカウンセリングです。
すでに頭の中にあるものを文字に起こすことだけが書くことなのではありません。自分に問いかけて、自分でも気づいていなかったような本心を見つけ出すためにも、書くことは有用です。
それはつまり、虚飾やごまかしのない、自分の本当の言葉を探す、ということです。
前に「呪いで死なない」でも、「言葉をもっと疑わなければなりません。なにかを簡単に説明してくれる言葉に飛びつきたくなるとき、その衝動を抑えなければなりません」と書きましたが、そのことにもつながってきます。
ところで、『言葉を失ったあとで』という臨床心理学者の信田さよ子さんと教育学者の上間陽子さんの対談本があるのですが、その中で語られていたエピソードが、重要な示唆を含んでいるように感じました。
DV被害を受けた方のカウンセリングにまつわるエピソードなのですが、カウンセラーに対して自身の経験を説明するとき、「よくあるストーリーとして簡単に理解されてしまうような言葉」を使ってはいけない、というルールを定めることがあるのだそうです。
例えば、「だって親だから」という言葉を使うのは絶対にだめ、と信田さんは言います。そういう言葉を使ってしまうと、わかりやすい「家族愛」という定型的なストーリーに回収されてしまい、その人だけの経験にしかない、固有の質みたいなものがこぼれ落ちてしまうからです。
そこで、「親だから」「娘だから」「親子の絆」といった、よく使われる言葉を禁止することで、自分の体験を自分の言葉で言語化するために考えることができるようになるのだといいます。
このエピソードは対面のカウンセリングにおける話ですが、自分で自分をカウンセリングするための「書くこと」についても同じことが言えると思います。
ありきたりなストーリーとして理解されるような言葉を使っていないだろうか。強くて使いやすい言葉でつい説明してしまっていないだろうか。そういうことを自分自身に向けて問いながら文章を書くことができるはずです。
誰のためでもなく、ただ自分自身のために書く、ということがありえます。それはたとえば、その瞬間に私が存在していることの証を書き残すということです。
永遠を願うように、少しでも遠くへ手を伸ばすように、書くということ。そのようにして書くためには、言葉から嘘やごまかしをできるだけ取り除かなければなりません。死なないために書くということの第一歩は、そこから始まるのではないでしょうか。
テキストの向こう側にいる他者
その一方で、書くことの本質が「他者に伝えること」だということも、忘れてはならない大事なことです。書いたものは読まれなければなりません。
書くことが自分自身へのカウンセリングとしても有用であるのは確かなのですが、書いた以上はきっと「誰かに読んでもらいたい」という気持ちが湧いてくるはずです。そしてnoteのアカウントを作って投稿してみて、誰からも反応がなくて落ち込んだ、という経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。
けれど、反応がないのは当然なのです。だってそれは自分のためだけに書いたもので、「伝える」ということを意識していなかったのだから。そのとき、はじめて自分の書いたものが他人から「どう読まれるのか」ということに意識を向けることができるようになります。
すると、読むことと書くことがつながります。今までなんの気なしに読んでいた本も、実は読みやすくするための工夫があちこちに凝らされていて、たった今それを読んでいる「私」のことを作者が想定して、気遣ってくれていたのだ、ということにも気づくはずです。
書くことと読むことは一方通行のコミュニケーションです。テキストの向こう側に、まだ見えない他者がいることを想像してみてください。書いているとき、それを読んでいる未来のどこかの誰かの姿を想像してみるんです。どういう人がこれを読もうと思ってクリックしてくれるだろうか。私はその人にどんな言葉を届けられるだろうか。
また逆に、読んでいるとき、それを書いている過去の作者を思い浮かべてみるんです。どんな文章も、どこかで生きている(いた)誰かが書いたものです。それはあなたが自分について書いたときと同じように、時間がかかる、苦しいことだったはずです。でもその作者も、あなたの姿を思い浮かべながら書いていたのかもしれない。そういうふうに他者を思い浮かべること。
でも、ステレオタイプな想像に嵌ってはいけません。そういうありきたりなイメージから逸脱するような、想像もつかないような他者が、テキストの向こうの現実にいるかもしれない。それをなんとか想像してみるのです。
そうやって他者を感じることができるようになると、死ぬ確率はぐっと下がります。他者の影響を受けて変わっていくことや、他者に影響を与えて変えていくこと。書くことと読むことを通して他者に触れようとすること。それが何より大切なことだと思います。
誰もが一度くらいは、好ましいと感じる本や文章に出会ったことがあると思います。その文の著者は、あなたに触れようとして手を伸ばしているんです。それを感じることができたなら、あなたもまたテキストの向こうの見えない他者に向けて、手を伸ばすことができるはずです。
おわりに——時間を超えること
自己を問うことと、他者へ触れようとすること。それが書くことにまつわる、私が最も重要だと感じる二つの事柄です。
もちろん、ただの愚痴を書き連ねることや、見栄を張るためのブログだって、それが日々のガス抜きになっているのであれば無意味とは言いません。それも死なないための実践ということもできます。でも、すでに死にそうなとき、もしあなたが死なないために文章を書こうとするのなら、その文章は自己か他者の少なくともどちらかに差し向けられていなければならないと、私は思うのです。
さて、色々と書いてきましたが、別に書くときにこんなことを意識する必要はありません。結局、好きなように書けばいいんだと思います。大事なのは、書き続けること。途切れてしまっても、そのうちまた書き始めること。そして再び書き続けることです。
私は書くことと読むことに対して、畏敬すら感じているのかもしれません。人が言語を手にした瞬間から、過去、現在を経て未来へとつながってゆく「途方もなく長い連鎖」を私も感じるからです。そして書くことと読むことを通じて、私たち一人一人がその長い連鎖のうちの一環になることができるからです。
もちろん、立派な小説家やライターじゃない私たちが書いたものなんて、そんなに長く残りはしないかもしれません。でも、そうと決まっているわけでもありません。たくさん書けば、ひとつくらい少しは長く残り続けるかもしれない。
それに、あなたが書いた言葉は、それを読んだ誰かの中にすでに蒔かれているのです。そしてそれがいつか芽を出し、その人の中にも言葉が生まれ、また同じように書きはじめるかもしれません。そうやって、時間を超えて言葉が次の言葉を紡いでゆくのだと思います。
書かれ、読まれ、受け継がれて、悠久の時間を貫いているこの言葉の連鎖に触れるとき、私は自分の限りある命が少しだけ慰められたような気がするのです。
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