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価値観は手続き記憶

公認心理士の先生と共に、仕事とメンタルについて話すイベントに登壇したときのこと。エヴァンゲリオンをこよなく愛するその先生が、話の流れは忘れてしまったが「価値観というのは手続き記憶ですから」と仰った。その言葉がずっと頭に残っている。ああそうか。SNSで流れてくる名言を何回「いいね」しても変われないのは、価値観というものが、知識ではなく、手続き記憶だからなのだろう。

手続き記憶とは、自転車に乗るとか歯を磨くとかいった、知識としてではなく、身体が覚えている記憶のことだ。

認知症を患い、多くを忘れてしまったバレリーナの両腕が、『白鳥の湖』が流れはじめた途端に美しく動きだす。肉体にまつわる記憶は、大脳皮質ではなく、「小脳」というもっと原始的な脳に記憶される。

文法の本をいくら読んでも英会話ができるようにならないように、テニスの入門書をいくら読み込んでもボールを打ち返せるようにはならないように、手続き記憶を身につけるには、知識や理解よりは、身体を何度も何度も動かすことが必要だ。

ものの考え方、捉え方、ひいては生き方といったものを、僕らは何から学んできただろうか。親、先生、先輩、上司といった人たちの言葉からだろうか。そういう身近な人たちから学んだことは、好むと好まざるとに関わらず、深く身体に染み付いている。僕は洗濯物を取り込んでそのまま着ることができない。どんなに急いでいても、一度その場で畳み、そして着る。それは幼少期に祖母から「洗濯物をそのまま着るな」と口酸っぱく言われて育ったからだ。なぜダメなのか? 理由はもはや覚えていない。でもいまだに服は、いちど畳まないと何だか気持ちがわるい。

幼い頃から叩き込まれた価値観は、習慣となり、その意味が抜け落ちても僕の身体を支配し続けている。

歳を重ね、自分自身で生き方を考えなくてはならなくなり、僕は生き方を、生身の誰かよりは本から学ぶようになった。本は効率的だ。難解で複雑で、だからこそ崇高に感じられる価値観をたくさん提供してくれた。しかしそこから得た価値観には、身体性が伴っていなかった。知識だけが積み上がると「私はこう生きるべきだ」という思いだけがひたすら大きくなっていく。そこに肉体が追いつかない。するとどうなるか。

勇気がでなくて行動できない。体力がないために行動できない。利己心や射倖心を煽られ、誰かの思惑通りに動いてしまう。こうして「あるべき自分」と現実の自分のズレが、傷として記憶に刻まれていく。そんな日々が続けば当然、自尊心がすり減っていく。

いい人間でありたいと願い、努力を続けることは素晴らしい。理想と現実のギャップに苦しむことが、よくないことだとは思わない。でも僕らは、生き方をもっと生身の人間から、身体性とともに学ばなければならない。本や、動画や、講義だけでは得られない何かがある。自分が理想とする価値観をまさに体現している人は、どんな約束を守り、どんな提案を断り、どんな言葉遣いをし、どんな表情で話を聞き、何に怒り、何をみて悲しみ、何を聞いて笑うのか? まさにいま生きている肉体のそばでしか得られない智慧がある。それをわけもわからず、意味もわからず、自分でも真似る。その仕草すべてを真似る。そうやってしか身につけられない何かがある。僕らは、価値観を身体で覚えていかなければならない。

慣れた人なら、本のなかからでも著者の息遣いや感情の機微を感じ取ることができるのかもしれない。たとえば写経はその一助になる。師の文章を自分でも書いてみることで、黙読では気づけなかった著者の気遣いを感じとることができる。

僕はいま、生身の師から見取り稽古で学ばねばならないことがたくさんあるように思う。不惑を前にして、ようやくそんな青臭いことを迫真に感じられるようになった。

曲がりなりにもこれだけ生きていれば、自分の人生にとって何が大切で、何がそうでないかは何となくわかる。しかしいまだに、大切なものを当たり前に大切にすることが難しい。相も変わらず、身体は恐れ、怠ける。

人生の場面が転換した。自分探しではなく、自分自身をまさに文字通り「体現」するための修行期間が始まったのだと思う。

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