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利己的に生きることに飽きたあなたへ
昔から利他に関心があって、色々本を読んだりしてきた。
私は自分を利己的な人間だと感じていて、それをなんとかしたいとずっと思っていた。
目立ちたがり屋だし、人から助けを求められると真っ先に「めんどくさい」と思ってしまう。でもそんな自分がとてもかっこわるいと感じるから、めんどくさ!と思ってから、いやそんなふうに思う自分カッコわる!と思い直して引き受ける。毎回そんな手順を踏んでいる。
でもやっぱりこういう手続きが必要な時点でナチュラルボーン・利他にはかなわない気がしている。
*
利他について最初に読んだのはアダム・グラントの『GIVE&TAKE』だったと思う。受け取るよりも多くを与える者(ギバー)は、人より多く得ようとする者(テイカー)よりも最終的には成功するんだ、って書いてあった。
でも成功したいから利他的にふるまう、ってすごい利己的じゃない……?与えたくても何も持ってない人はどうすればいいんだ……?という違和感が拭えなかった。
それで利他よくわからん、となって、しばらく利他からは離れていたが、最近、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』という本と出会い、利他への関心が再発したのであった。
贈与と利他。なんだか似たような概念である。この本によれば贈与は「自分がすでに受け取っていたことに気づく」ことから始まるらしい。
自分もまた、受け取っていたものを次へと贈らなければならない、と感じてからなされる行為こそが贈与なのだという。
何も受け取っていない状態で贈与をはじめてはいけない。それは自己犠牲につながってしまう。
そうかなるほど。すでに受け取っていたことに気づく。つまり感謝しましょうってことね。おっけおっけ。そういうの得意。自分が今どれだけ恵まれているのか。思い出してみよう。
親から五体満足で産んでもらえたこと。ありがたい。経済的に何不自由なく、育ててもらえたこと。ありがたい。今も多くの医療従事者のおかげで、感染症が蔓延する世界を「いつもどおり」に生活できていること。本当にありがたい。
……もちろん本音だ。ありがたいと思っている。でもこの思い出す作業、やればやるほどむしろ申し訳ないという気持ちのほうが大きくなっていく。
これは「受け取っていたことに気づいた」というより、「白々しいことをしている」という申し訳なさだ。明らかに自分のために無理矢理感謝を引き出そうという動機がもう、しょうもない。
残念ながら、この本を読み終えた段階では、贈与の感覚にはピンとこなかった。
それでもこの本からは何かこれまでとは違う予感がした。だから自分としてはめずらしく、この本の著者である近内さんのゼミに参加するまでに至った。
ゼミの参加者同士で感想をシェアする中で、「自分には『すでに受け取っている』という感覚がよくわからない」という話をしたところ、ある方から質問を受けた。
「すごくしんどかった時期を、誰かに助けてもらったこととか、ないですか?」
ああ、ありますあります。就活がうまくいかなくてしんどかったときに……
即答できるほどに一瞬で思い出したのである。就活のために上京してきて、住むところがなかったときに、居候させてくれた先輩のことを。不安で行動できない自分を、それでもただ部屋に泊めつづけてくれた先輩のことを思い出したのである。
すっかり忘れていた。すっかり忘れて過ごしていた。
そして不意に思い出し、10年以上前の記憶に対して、いままさに、感謝の念をいだき始めていた。
そうか。「すでに受け取っていたことに気づく」とは、こういうことか。
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先輩は、私に親切にしてくれた。
だけでなく、親切に「し続けて」くれた人だった。
あの辛く、さみしい時期に、私に居場所を用意し続けてくれた。
利他とは「1回限りの行為」ではない。利他は「与え続けられる」ものだ。
最初の動機は利己的でも、繰り返しの中で利己的な要素は消えていく。そうして利他性は純粋さを獲得していくものなのかもしれない。
*
贈与を「受け取っていた」と気づけたことで、先輩こそがまさに利他的な人だったな、ということにも同時に気づいた。
この発見を契機に、「そういえばあの人も利他の人だった」と、過去に出会ってきた利他的な人を思い出しはじめた。
するとまもなく、今まさに関わっている人たちの中にも、たくさんの利他的な人がいることに思い至った。
そして私は、かれらを観察しはじめた。
利他について本を読み、あれこれ考えても全然わからなかったことが、利他的な人たちの存在に気づき、観察するようになって、ようやく少しずつ、利他のことが分かってきたような気がする。
たとえば、利他とは知識や考え方ではなく「技術」だということがわかった。
自転車の乗り方と同じである。利他は、試行錯誤し、転び、失敗を繰り返しながら身体で覚えるものだったのだ。
私は本を読み、考えるばかりで、実践が足りていなかったし、何が正解なのかもよくわかっていなかった。
でも今は模範とすべき人が誰なのかがわかるから、正解がわかる。
正解がわかるから失敗もわかる。つまり私は、利他の練習ができるようになっていた。
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少しずつ練習を繰り返すことで、利他を生きる人の特徴も少しずつ見えてきた。
利他的な人は居場所をつくる。かれらは、安心していっしょに「いる」ことができる空気をつくる。それはかれらが、何かを「する」ことを要求しないからだ。
私は就活のために上京してきたのに、何十社も願書を書いて面接に行って……というのがどうしてもできなかった。願書を書くだけで何日もかかり、一社面接にいくだけで一ヶ月かかった。そのことを先輩は知っていたけど、もっと頑張れ、なんて一言も言わずに私を泊め続けてくれた。
コールセンターで働いていたときにも、居場所をつくるのが本当に上手い人がいた。
コールセンターは忙しい。質問をエスカレーションしにいっても、ほとんどの人がパソコンの画面から目をそらすことなく質疑に応じる。それが当たり前の光景になっていたし、なんかそれが「できる人」の仕草っぽいとされていた。
そんな中、かれはどんなに忙しいときでも手を止め、顔だけでなく身体ごとこちらを向き、笑顔で「どうしたの?」と迎え入れてくれる人だった。そう。この動きは「迎え入れてくれた」という感じがするのだ。そしてこちらの言うことを遮ることなく聞いてくれて、ゆっくりとした口調で質問に応えてくれる。効率性が求められる職場で、かれの存在は異質だった。
そんなやり方でうまくいくはずがないと誰しもが思っていた。私自身も思っていた。
私がその職場を離れてしばらくして、当時、職場で仲の良かった友人の結婚式に参列したとき、彼は重役の席についていた。
*
利他的な人のことを、我々は忘れてしまう。それは我々が恩知らずだということではない。かれらはあまりにも自然なふるまいで助けてくれるし、細やかなケアを提供してくれるが、それらがまったく押し付けがましくない。
だから気づけないのだ。しかもまさに助けられている最中のとき、我々は必死で、自分のことしか考えられなくなっているから、なおのこと気づくのが難しい。
だから与えられていたことには、後になって気づくしかないのだ。
ゆえにかれらは、背景化しやすい。その存在の価値に気づかれないことが多い。
あれ、ということは。
もしかして、世界って本当は、こういう「忘れてしまうくらい自然になされる利他」によって、支えられているのではないか……?
我々はもしかして、かれらが気づかれないように支えてくれている舞台の上で、「私のように成功したいかー!」「うおー!」「だったら私を見ろ!私の話をきけ!私に金を払えー!」「うおー!」みたいなことをやっていたのではないか……?
利他について理解が深まり、実は世界にはすでに多くの「利他を当たり前に生きる人たち」がいることに気づくにつれ、「自分」という枠組みでしか物事を考えていなかったことがなんだか恥ずかしく思えてきて、そして利他を当たり前に生きる人たちに惹かれるようになっていった。
しかし、これまで私は当然のように利己駆動で生きてきたから、「感謝されたい」「褒められたい」という感覚はとても根深い。良いことをしようとすると、良いことをしようとしている自分が意識され、とても居心地がわるい。
とはいえ、なんとかなるだろう、という可能性も感じてはいる。
私はこれまで「利他的な人」という言い方で二人の人物を紹介してきたが、完全に純度100%の利他人間だったかというとそうではない。かれらにも利己的なところはたっぷりあった。
利己と利他は共存し得る。
*
利他的な人にも利己的な欲求はたしかにある。
でも、その優先順位はあまり高くないようにみえる。かれらは見返りを求めないというよりは、見返りにあまり興味がないようにみえる。
もしかしたら、彼等は我々にはみえていない見返りを受け取っているのかもしれない。
たとえば、かれらが生み出す表現、作品、仕事、そして立ち振る舞いからは、自分をみてほしい、自分を評価してほしい、といった利己的な執着が感じられない。
だからこそかれらの周りには多くの人が集まる。
そう。かれらはいつも、人とのつながりの中にいる。
そのつながりこそが、かれらにとっての見返り、報酬なのかもしれない。かれらもまた、利他のつながりの中から何かを得ているのだろう。
そこにはきっと、利己に閉じこもった人々がかろうじて交換でつながっている世界では得られないものがあるのかもしれなくて、私は、それが何なのかを知りたいのかもしれない。
CM
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