本当に伝えたいことは細部にしか宿らない
「心」と「頭」を同時に使うことはできない。でも文章を書くときにはどちらも必要だ。これらふたつの道具を交互に使い分けながら、文章は形になっていく。
文章には、心で書くべきところと思考で書くべきところがある。そこを取り違えると、説明書みたいな空っぽの文章になったり、長文のお気持ちメールになったりしてしまう。
僕らの執筆教室には
「『ので』を使わずに書く」
という作法がある。手クセを封印して新しい作法にのっとって書くときは頭をつかう。もうすこし正確に言うと、「ので」を使おうとしている自分に気づいたり、読み返しているときに「ので」を発見したりするのには頭を使う。
でもひとたび「ので」を見つけたならば、次は「ので」を言い換えるために別の表現を探すことになる。このときには「心」を使う。
「ので」でつながれた文章のあわいには、手クセによって見逃された想いが隠れている。それが浮かびあがってくるのをじっと待つ。これは文字通りに「待た」なければならない。腕を組んだり、目をつむったり、待つときの所作は人それぞれだ。他のことをせずにただじっと待つ。
慣れないと、退屈で無駄で不安に感じる時間だ。でも本当は、この瞬間こそが創作でもっとも大切なひとときなのだ。「自分を整えるために瞑想をしましょう」なんてライフハックとは比べようもない、創作と真摯に向き合う人だけが得られる無我の境地。このあわいを無駄だと感じてしまう思考が、僕らの創作を生産活動に貶めてしまう。
頭を使って書けるのは「役に立つ話」だけだ。役に立つ話は道具だ。道具には目的がある。目的があるから量産できる。役に立つ話をしてくれる人気のYoutuberはみんな早口だ。彼らは道具を量産するマシーンだ。いまの世界には、道具ばかりがあふれている。もう十分だ。みんなが本当に求めているのは穴であってドリルではない。そして僕らが文章で届けたいのは穴ですらない。
箇条書きでたくさん情報を詰め込めばバズりやすいとか、「衝撃の事実。多くの人に届いてほしい」という書き出しからはじめるとリツイートされやすいとか、時事ネタを扱えば拡散されやすいとか、そういう知識を使って書けば、バズる文章をつくることはできる。でもそれはギラギラの看板で店を目立たせるようなものだ。映画のポスターを宣伝文句で埋めるようなものだ。僕らはそういう光景にほとほとうんざりしていたはずだ。
効率的に書こうとすればするほど、バズるための表現を使えば使うほど、ほんとうに伝えたかった想いは剥がれ落ちていく。
心が本当に伝えたいことは、端的な言葉にはあらわれない。それはひとつひとつの言葉の選び方や並べ方、句読点の位置などにあらわれる。
僕らが表現したかったのは「穴の開け方」ではない。
「この壁に花を飾ったら素敵だろうな」
という想いのほうではなかったか。
「小さな花瓶がおけるような棚がほしい」「階段のような棚が似合いそうだ」そんな像が心に浮かんでしまったのだ。
必要なのは木の板と、のこぎりと、釘を打ち付けるためのドリルだ。日曜日にホームセンターに買いにいこう。そういうプロセスは頭で組み立てればいい。
「花を飾ろう」という想いを頭で説明しようとするから「部屋に花を飾ることでリラックスして創造力がアップします」と書きたくなってしまう。ためになることをいいたくなってしまう。
心は「自分が言いたいことを的確に表す単語」を都合よく持ってきてはくれない。心が運んでくるひとつひとつの像を、よく見て、ゆっくりと言葉に置き換えていく。目の前に置いてみて「違う」と気づく。別の言葉をあててみる。「ああこれだ」という気持ちよさを感じる。ぴったりはまったそのピースに呼び寄せられるように、心が次の像をはこんでくる。
そうやって書き上がった文章には、結論もなければオチもないかもしれない。でもそれでいい。
「悲しかった」とか「愛していた」なんて言葉では表現できない複雑な想いを、どんな言葉で伝えるべきかと僕らは悩む。でもそんなことは頭で考えないほうがいい。あなたがほんとうに伝えたい想いは、心で書いているまさにそのさなかに、文章の端々に宿っていく。
CM
先日、第4期の執筆教室の最後の講義がありました。そこで倉園さんが話してくれた「心と頭を交互に使って文章を書く」という話を僕なりに広げたのがこの文章です。
こういう書き方に1か月じっくりとみんなで取り組む教室です。興味がありましたらのぞいてみてください。第5期(2023年2月~)のメンバー募集中です