見出し画像

文字で描かれる闇と光5選

暗闇や光の描写を観賞してみた。5選というより、著者5人。エッセイや実用書。
暗闇や光という自然と、身体や感情とのつながり方が面白い。以下、描写の感想メモ。


1.中野純『ナイトハイクのススメ』『闇と暮らす』

 なるべくライトに頼らずに闇の森を歩いていくと、目がどんどん慣れて超高感度の夜目(ナイトヴィジョン)になり、真っ暗だと思っていた目の前に、昼の森とはまったく違うモノトーンの幻想的な景色が、ボーっと魔法のように立ち現れてくる。ほんとうに暗いと、私たちの目はモノクロで物を見るようになるから、昼はカラーだった景色が、まるで夢の中のようなモノトーンの景色に様変わりするのだ。
 まずはその視覚の劇的な変化に驚くが、それだけではない。五感のすべてが鋭敏になり、落ち葉がそっと着地する微かな音にも、向こうの繁みにいる獣の息遣いにも、離れたところで咲く花の香りにも気づき、肌に触れる夜霧の一粒一粒すらも感じ取れる気がする。
 木々の葉が頭上を厚く覆う森では、目が超高感度になったところでなにも見えてこないが、五感が研ぎ澄まされると、複数の感覚の協働によって「今までここになにかいたに違いない」といった第六感のようなものまで働くようになる。自分が夜行性の野生動物か超能力者になったような気分になる。そのことに静かに興奮しつつ歩くうちに、身も心も澄み切っていく。

中野純『ナイトハイクのススメ』p7、ヤマケイ新書

暗闇では、身体が変わる。知覚する世界も、思考も変わる。
暗闇の中でおぼえる高揚感が、次々と身に起こる変化から語られる。強い納得感とともに、冒険しているようなわくわく感が言葉で掘り起こされていく。
昼目(明所視)と夜目(暗所視)。人間は、光の量によって二種類の目の細胞を使い分けているらしい。昼目は感度は低いが色を識別できて、夜目は色を区別しないが微かな光を感知する。人間と他の動物では、目の構造が違うから見える世界はもちろん違う。でも同じ人間でも、昼と夜で別の目を使えば、見える世界が変わる。
けれど現代の明るい街中では、夜目を使う機会はほとんどない。目に映るのは、いつも色鮮やかな昼仕様だ。夜目になるのは、寝る少し前、自室で電気を消した後。はじめは均一で真っ黒だが、徐々に家具のシルエットが浮かび上がり濃淡のある景色になる。その見え方を安全圏である家ではなく、屋外で再現する。夜目に切り替わるほど暗い、街灯が届かない山の中で。
上記の描写からは、自分の眠った能力が開花したような興奮が伝わってくるが、別の本では暗闇に身を投じた後の安らかな気分も書かれている。

 闇の山に入るときはいつも怖いが、三十分から一時間もすれば、五感が闇用にチューニングされて、逆に、闇に包まれていることに安らぎを覚える。怖さのあとには必ず、心地よさがやってくるのだ。
 ひとしきり歩いたあと、ライトを消して闇の中で静かに休憩すると、すごい気分に浸れる。自分の手足もちゃんと見えないほど暗いから、自分の体とそのまわりとの境界があやふやになって、文字どおり、自分を見失う。自分が闇の中に溶け出していくような、逆に、闇が自分に沁み込んでくるような気分になって、まわりと自分がごっちゃになる。そして、身体も心も暗い闇に溶け込んで、自分が自然の一部だと思えてくる。

中野純『闇と暮らす』p14、誠文堂新光社

思ったのは、水と闇は似ているということ。
水に入った瞬間も、身体がこわばる。冷たさに鳥肌が立つ。けれど時間がたつと心地よい。力を抜いて浮遊感に身を任せていると、自分が水と一緒になって揺れているような、自分の身体と水の境目がなくなり、自分が拡がっていくような。暗闇の心地よさはその感覚に近いと思った。
割愛したけど、暗い山に身を投じる瞬間の怖さ、どのよう行動を経て怖さが和らいでいったか、という描写も臨場感があってとても好きだった。

今度は、同じ著者による光の描写。

 もう三十年近く前、梅雨の走りの深夜に東高尾の森を歩いたときのこと。夜が明けてきて、どこまでもモノクロの景色の中にふと、それまで全然見えていなかったヤマツツジの赤い花が目に留まり、「あ、赤だ」と思った。
 と、その瞬間、まるで白黒のコマーシャル映像かなにかが突然カラーに切り替わるように、森の景色がうわーっとモノクロからカラーへいっぺんに切り替わった! 夜目(暗所視)から昼目(明所視)へ、神々の時間から人間の時間に一気に変わったのだ。日の出より前に世界が色をとりもどす、そんな劇的な時間がまず訪れるのだ。

中野純『ナイトハイクのススメ』p10、ヤマケイ新書

毎日必ず起こる夜明け。その現象に身体の芯まで浸ると、鮮烈な体験になる。暗い山を何時間も歩いて夜を越えるからこそ味わえる光、濃密な時間。
身体と心が闇に慣れるには時間がかかる一方で、光に適応するのは一瞬だ。その様子が、スピード感に変化をつけて描かれている。赤い花を見つけた瞬間はスローモーションのようで、その後は早回し。そして劇的な時間。何となく過ぎてしまいそうな、辺りが明るくなる時間を、クライマックス並みに豪華な演出をしているのが素敵だ。ご来光に引けを取らない、濃い描写だと思う。

以前日の出を見に、真っ暗な時間から一人で高尾山を登った時がある。登る時はライトを使い、山頂ではライトを消して日の出を待っていた。周りの闇が薄らいで色が見えると、それまでの異界に紛れ込んでしまったような不安、緊張、用心深さがすぐにとけて跡形もなくなった。一度昼目になると、もう夜目の時と同じような考え方ができず、数分前までの体験が夢だったように感じる。記憶を引き継いだまま、もう一人の自分と入れ替わるような妙な気分。
もし闇が豊かな環境で、毎日深い夜を越えたら、価値観がかなり変わるのだろうなと思った。

2.三宮麻由子『空が香る』『そっと耳を澄ませば』

 夜気がズンズン冷たくなり、それとともに闇も深まっていく。光をもたない私には、闇というものもない。しかし、視覚を使わなくても明るさと暗さを感じ分けることはできる。明るい時には空気が軽く、暗くなるにつれて重みと圧力を増すからだ。
「もう真っ暗だね」
「おまえ、なんで分かんの?」
「暗い感じがするから」
「どんな感じだよ」
「うーん……重たい感じっていうか」
 私と彼らの間に、少しずつ会話が生まれてきた。
「ほんっとに見えてねえの、おまえ? だっていつも自転車とか乗ってんじゃんか」
「音で乗るんだよ。見えなくても方向の感覚とかあるし、壁が近づいてくれば気配がするから、慣れたところならぶつからないよ」

三宮麻由子『空が香る』p19~20、文藝春秋

光は熱なのだと、当たり前のことに気づいた。目で感じるだけが闇ではないのだな、と。
「空気の重み」。つまり日が落ちて、熱を失った空気の温度と湿り気が、闇の感触だ。夜のすっと冷えた匂いを思い出す。
著者は視覚に頼らず自転車に乗れるし、天気予報よりも正確に雨をあてられる。真っ暗闇な中でお風呂に入り、ごはんを食べるのも平気だ。次はその著者が、暗闇の怖さを知った子供の頃のエピソード。

 沈黙はますます深まり、空気が深々と冷えてきた。夏の夜なら、多少暗くても暑さのために空気が軽く、恐さがどことなく薄らいで感じられる気がする。だがこの日の空気は、まるで山奥の夜のように冷たく、鉛のようにズッシリと重かった。
 私はそのとき、生まれて初めて、「暗闇の圧力」というものを感じたのだった。闇は、もともと光のない私の世界を、幾重にも覆う黒いベールのように体中にまとわりついてきた。方向感覚がまるでなくなり、重苦しく地の底に引き込まれるような恐怖、これが暗闇の正体だった。もちろん私には、暗闇そのものは見えていないのだから、正確にいえば、私は空気の冷たさと静けさが醸し出す闇の雰囲気に怯えていたのかもしれない。

三宮麻由子『そっと耳を澄ませば』p170、NHKライブラリー

よく知った近所で、行きは問題なかったのに帰り道で迷った時の様子。
家に続く曲がり道。歩き続けても、その曲がり道の左側が開ける感覚がやってこない、いつも聞こえるはずの音が聞こえない、空気の動きがない。道標にしていた音と路面の感触が得らえず、道の区別がつかない。人の気配もないから、人を探して道を尋ねることもできない。
「沈黙が深まる」。無音によって情報が断たれ、途方に暮れた著者は、まるで闇に阻まれているように感じてしまう。

例えば夜道で、自分が怯える時。その理由はたぶん、視界が悪くて何があるのか分からないから、だけではない。その時、肌で感じている夜の空気の冷たさや湿り気、静けさ。それらを含めて闇の怖さなのだ。
空間を把握するための情報(視覚、もしくは聴覚や触覚による)が絶たれて不安な時、空気の重さが心を沈ませて、怖さを掻き立てる。それが暗闇に呑まれてしまうということなのかもしれない。

読むほどに感覚がひらいていく文章。読んだ後に外へ出ると、風景が細胞のひとつひとつに沁み込むような気分になる。
全身を包む広範囲の空間が、立体的に立ち上がる感じ。目で見た情報が描かれているわけではないのに、視覚的にも風景を想像できる。

3.谷崎潤一郎『陰翳礼讃』

 まことにあの障子の裏に照り映えている逆光線の明かりは、何と云う寒々とした、わびしい色をしていることか。庇をくぐり、廊下を通って、ようようそこまで辿り着いた庭の陽光は、もはや物を照らし出す力もなくなり、血の気も失せてしまったかのように、ただ障子の紙の色を白々と際立たせているに過ぎない。私はしばしばあの障子の前に佇んで、明るいけれども少しも眩さの感じられない紙の面を視つめるのであるが、大きな伽藍建築の座敷などでは、庭との距離が遠いためにいよいよ光線が薄められて、春夏秋冬、晴れた日も、曇った日も、朝も、昼も、夕も、殆どそのほのじろさに変化がない。そして縦繫の障子の桟の一とコマ毎に出来ている隈が、あたかも塵が溜まったように、永久に紙に染み着いて動かないのかと訝しまれる。そう云う時、私はその夢のような明るさをいぶかりながら眼をしばたく。何か眼の前にもやもやとかげろうものがあって、視力を鈍らせているように感ずる。それはそのほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払うには力が足らず、却って闇に跳ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じつつあるからである。諸君はそう云う座敷へ這入った時に、その部屋にただようている光線が普通の光線とは違うような、それが特に有難味のある重々しいもののような気持ちがしたことはないであろうか。或いはまた、その部屋にいると時間の経過が分からなくなってしまい、知らぬ間に年月が流れて、出て来た時は白髪の老人になりはせぬかと云うような、「悠久」に対する一種の恐れを抱いたことはないであろうか。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』p23、青空文庫
※本来は縦書き特有の繰り返し符号が使われていますが、横書きなので記載できていません。

さっきは視覚以外の感覚の描写だったが、今回は目で見た光を克明に描きながら、悠久へと飛躍する。
障子ごしの淡い光を丁寧に目でなぞっていくうち、気づくと自分も一人静かな座敷に座っている。そんな気分になる。自分の呼吸や衣擦れの音さえ耳につくような、静謐な空気。せわしない生活から切り離された、しんと心が静まる不思議な空間。
光は移ろうものだ。太陽の動きを目で追うのは難しいが、ふとした拍子に外が暗くなったことに気づく。光の変化によって、一日の経過を実感する。この空間では、それがない。常に薄ぼんやりとした、変化のない場所。それは生死を超えた世界かもしれない。このまま長く過ごせば、欲望も喜怒哀楽の波もなくなり、仙人みたいになるのだろうか。

聴覚的な描写が特にないのに、静けさを感じたのが不思議だ。
静けさの印象の元は、過去に訪れた日本建築が物理的に静かだった記憶。
音を立てる生き物がいない、活動の停止、時間の流れを感じない→静か、という連想。(その逆は、生き物の動きが活発、変化に富む、時間の経過を感じる→にぎやか)
あと、淡い光の細やかな観察や想像→目の前の対象や、自分の内面に集中できる→物理的に静かな環境、という連想もあるかもしれない。

引用するには長くて、どこを切り取るか悩み断念したけど、この本では陰影、闇が主役。視覚的に鮮明に描かれたモチーフに、比喩で別の視覚イメージが重なる。多重露光のアートみたいに、重層的に風景が浮かぶ。
工芸品、食べ物、建築、人の肌、等々。継ぎ目が見えず、するすると話題が変わっていく絵巻物のような文章。

4.原研哉『白百』

 呼び起こされる記憶は「思い出」というような物語性を持つものではなく、もっと即物的で断片的である。たとえば、「夏」という言葉に触れときに、僕の脳裏に最初に浮かぶのは、フェリー、デッキ、日射し、影、潮風、旗、入道雲、港、砂浜、テント、ボード、オール、発砲スチロール、氷、Tシャツ、タオル、歯ブラシ、防波堤、カレー、サイダー、コップ、ロープ、魚影……。高校の頃、友人たちとよく出かけた瀬戸内の笠岡諸島、白石島の記憶である。つまり古い記憶が呼び出されてくる。珍しい体験や極め付きの異界への旅なら、大人になってからの方が断然多いはずであるが、「夏」のようによく馴染んだ言葉の場合、その言葉がきらきらと輝いていた幼く若い時代の記憶が蘇ってくるのである。

原研哉『白百』p130、中央公論新社

ここでは物理的な光は描かれていない。けれど眩しい。淡々と挙げられた名詞が、スナップ写真のように頭の中に浮かび上がっては消えて行く。その何気ない景色は、光を纏っている。
「『夏』のようによく馴染んだ言葉の場合、その言葉がきらきらと輝いていた幼く若い時代の記憶が蘇ってくる」。著者は夏を最も楽しんだ時代が、若い時代なのかもしれない。そうでなくとも、夏は少年時代を起想しやすい。
些細なことが楽しく、目に入るものが何でも新鮮で輝いて見える幼い時代。
一方夏は、開放的な空気が満ちた、眩しい季節。海や山のような所へ遊びに行きたくなる。はしゃぎたくなる。
人生と季節を重ねると、人々を活動的にさせる夏と、感受性豊かな少年時代は相性がいい。

過去の記憶は大概、色褪せて不鮮明になる。けれど中には、時間が経てばたつほど輝き、自分の中で存在感を放つものがある。または、普段は忘れているのに、何かのきっかけで思いがけず鮮明に浮かび上がる。
実際の体験では、光が満ちた晴れた日ではなかったかもしれない。それでも眩しく美しいのは、幸せだったからだと思う。幸せな感情は、記憶の海でよみがえると光になる。光は、感情によるエフェクトなのだ。
特に、もう戻れない時間に対する憧れ、切なさ。そういった気持ちが、いっそう過去の光景を輝かせる。

これは白について考察する本、第2弾。第1弾の『白』では、白という概念を問い直す。人々が白に見出してきた意味や、白の感じ方を解き明かそうとする。どちらかというと普遍的で、抽象的。一方、本書『白百』はより個人的で、具体的。著者が白を感じるものを具体的に100個挙げてつづる。今回は夏、というと白いと感じる心理現象について掘り下げた話から。

5.乾久美子、東京芸術大学乾久美子研究室『小さな風景からの学び』

102 明るい
春や夏の晴天の日。明るい日差しを受けて、まちがまぶしく光り輝く。強くはっきりした黒い影が、道や壁を覆って風景を変えていく。まるで道には黒い絨毯が敷かれたようで、壁にはカーテンがかかったように見える。一方で、光を受けた部分はハレーションを起こして真っ白になる。明るい日光は、風景を明/暗あるいは白/黒というふたつの世界に切り分け、リズミカルに再配置していく。目に映る景色は色鮮やかに見える時もあれば、モノトーンに見える時もあり、見え方そのものが状況に応じてリズミカルに変化する。

乾久美子、東京芸術大学乾久美子研究室『小さな風景からの学び』p157、TOTO出版

街路樹、建物、道路。短い時間では、そう揺るがないだろうと思われる街の形が、光によって作りかえられる。
人が造った建物の頑強なレイアウト、確かな存在感。そこに重なる、強烈な明暗。レイアウトを大胆に塗り替え、思いもよらない街の形が生まれる。
あたかも光そのものが世界を構築しているような、そう思う瞬間がある。

前半の文章では、壮大な印象。地上の人々が緻密に組み立てた街並みを、上空の誰かが模様替えしている、または街並をキャンバスにして遊ぶか実験している。そんな感じだ。
後半は、めくるめく光の世界に入りこむ。自分も黒く塗りつぶされたり、光の境界線に切り分けられたりと、風景に染まって歩くたびに自分の姿も変わっていくようで楽しい。

この本では、直感的によいと感じた風景を調査し、その魅力を構成する要素を抽出している。建築科の学生と教授が膨大な風景を撮影し分類しており、今回はその中の光の章、「102 明るい」とタグ付けされた項目を引用。
いろんな切り口で分類されていて、目次を眺めるだけでわくわくする。普段の生活でふと目に留まる風景、あるいは写真に対するなぜか気になる、何となく惹かれるという感覚が、言語化されていて感動する。

終わりに

いろんな視点から光や暗闇に浸れた。ただ書いているうちに光って何、みたいな沼にはまり何を書いているのか分からなくなってきた。光や闇のような現象は惹かれるけど、捉えづらい。とりあえず長らく散らばってた本の感想を一ヶ所に集められてよかった。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?