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科学と聖書にまつわる随想(16)

「アナログとデジタル」

 時計にはアナログ時計とデジタル時計があります。“アナログ(analog(ue))”とは“類似”あるいは“類似物”という意味です。“アナロジー(類推、例え)”という言葉と同根だと思います。アナログ時計は、時間の経過量と針の回転角度が類似(相似)の関係にある、つまり、例えば5分が10分になったら、針の指す角度も2倍になる、ということです。一方、“デジタル(digital)”はdigit(桁)の形容詞形で、数値で表現することを意味します。この場合、数値を表す文字(数字)のサイズが2倍になっても、値そのものは変わりません。“digit”の元々の意味は“指”ということで、数値を数える時に指を折って数えるところから来ています。

 アナログ量(ものの大きさや長さなどで表される量)とデジタル量(数値で表される量)の最大の違いは、連続量か不連続量か、ということです。アナログ時計の角度は、特に制約無くいくらの角度にでも連続的に動かせますが(時計によっては、目盛りの位置にしか針が止まらずカクカク動くものもありますが.....)、デジタル時計の場合、1分の次は2分です。秒まで表示があっても、1秒の次は2秒です。つまり、数値で表現しようとすると、無限の桁数は書き切れませんから必ず一番下の桁というのができますので、その桁が1の次は2しかありません。それより細かい違いはデジタルでは表現のしようが無いのです。つまり、飛び飛びの値しかとることができない不連続量です。

 自然界、少なくとも私たちが生活しているレベルの世界の物理量(長さ、重さ、温度、時間、など)は、基本的に全てアナログ量です。これをコンピュータで扱おうとすると、コンピュータはデジタルの世界で動いてますから、デジタル量に焼き直す必要があります。アナログ量をデジタル量に焼き直す作業のことをA/D変換といいます。Analog(ue)-to-Digital conversion です。最近は見かけなくなりましたが、水銀柱式の体温計の場合、温度によって伸び縮みする水銀柱の長さはアナログ量です。電子式の体温計では、温度センサの出力電圧の大きさをA/D変換して数値(2進数)で表し、それを10進数で℃単位の数値に換算して液晶に表示します。
 話の本筋からは逸れますが、この時、液晶画面に表示される温度の数値は、決して体温そのものではないことに注意が必要です。表示されている温度は、あくまで温度センサの温度です。体温を知るためには、温度センサを体に密着させ、体の温度を温度センサにしっかり伝えることが必要です。つまり、この時、体温から温度センサの温度へという“情報変換”と、温度センサによる温度から電圧への“信号変換”、さらに、温度センサの電圧から数値への“A/D変換”という3段階の変換作業が行われているのです。そして、それぞれの変換作業の過程には必ずエラーが付き物だということを心得ておく必要があると思います。

 注意しておくべきは、アナログ量をデジタル量に変換する時、アナログ量は連続的にどんな大きさもとり得るのに対し、デジタル量は飛び飛びの値しかとることができないため、表現し切れない部分が必ず残る、ということです。実数の小数点以下を四捨五入して整数化するように、限られた飛び飛びの段階のどれかに当てはめる操作のことを“量子化”といい、その際に丸めて切り捨てられる情報のことを“量子化誤差”といいます。A/D変換の際には、この量子化誤差が生じることが原理上避けられません。電子式体温計では0.1℃(安物では0.5℃単位のものもあります)より細かい桁は表示されませんが、水銀柱式の体温計なら目盛りをきちんと読めるかどうかは別として、そういう制限はありません。

 聖書にはこんな譬え話が載っています。

「天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。そこで、その人たちに言った。
『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
彼らは出かけて行った。
主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。
『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
彼らは言った。
『だれも雇ってくれないからです。』
主人は言った。
『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。
『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
しかし、主人はその一人に答えた。
『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」

(マタイの福音書20:1 ~16)

 この話は、普通に読めばどう考えても理不尽です。最初に来た人たちは、五時ごろに来た人たちより多く働いたのだから、それだけ多くの報酬を受けて当然だ、と誰もが思うでしょう。そう考えるのは、やはり私たちがアナログ量の世界に生きているからだと思います。働きの量と報酬の量は類似(相似)の関係にあって然るべきだ、と考えるのです。実際、ビジネスの世界ではそうでなければ割に合いません。

 しかし、天の御国はそうではないことをこの譬えは示しています。ふどう園の主人とはイエス・キリストのことで、ぶどう園の主人に従って働くか否かは、すなわち、イエス・キリストに従うかどうか、その救いに身を委ねるかどうか、ということを意味します。それは、0 か 1 か、つまり、デジタルの世界です。0 か 1 かは、どれだけ働いたかで決まる訳ではないことが分かります。ただイエス・キリストを信じて仰ぐ(つまり、信仰)かどうかで決まることになります。この場合、どれだけ働いたかの情報は“量子化誤差”ということになります。A/D変換における量子化誤差は、切り捨てられる情報として失われてしまいますが、天の御国の場合、雇い主は全知全能の神(創造主)ですから全てをご存知であり、すなわち、情報の欠落はありません。

 ただ、何時に雇われて、どれだけの仕事を任されるかは、人それぞれな訳です。人それぞれに役割りが違う訳です。最初に雇われた人たちが間違っていたのは、自分と他人とを比べてしまったところです。雇用の契約は、雇い主と自分との1対1の関係です。労働者たちは、雇ってもらって働くことができること自体に感謝すべきであったのです。私たち被造物は、そもそもは造り主の主権下の存在であったのに、善悪を自分で判断して独り歩きを始めて迷ってしまっていたところ、造り主はご自分のぶどう園に招き入れてくださったのです。私たちが働いたから雇ってもらえたのではなく、ぶどう園の主人の側から招き入れてくださいました。

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」

(エペソ人への手紙2:8,9 )

 この話に出てくる“一デナリ”の報酬は、天の御国に招き入れられるかどうかということを意味していますが、その際に生じた“量子化誤差”がどれほどであったかについても、神(創造主)は決して無視はされません。

「主よ 恵みもあなたのものです。 あなたは その行いに応じて人に報いられます。」

(詩篇62:12 )

「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。」

(ローマ人への手紙2:6 )


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