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#363 [哲学] 客観的な道徳基準が存在しないという立場

第52週 第6日(土)哲学「道徳的相対主義」

1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365を読破しようという企画。
この本の概要についてはこちらを一読ください。

今日は哲学「道徳的相対主義」です。
ついに1日1ページも最後の週となりました。最後まで頑張っていきましょう。

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本の要約

道徳的相対主義とは、何が善で何が悪化についての客観的な真理は存在しないという立場のことだ。この立場では、私達にできるのは、ある行動が様々な基準の一つに照らして善か悪かを判断することだけだと考える。

■道徳的相対主義が自分の立場を養護するために使える戦略
1,道徳的相対主義が道徳的多様性を最もよく説明できると主張することだ。当特的相対主義者たちは、異なる道徳基準が存在すると仮定するなら、正しい道徳観を持っている人は、なぜ正しい信念を抱くようになり、間違った信念を抱いている人は、なぜそれが正しいと誤解したのかを、問うかもしれない。

2,客観的な道徳的事実というものは存在しないとはっきり主張することだ。客観的な道徳的時事には、客観的な「善」と「悪」が必要だ。しかし、善であることは物理的特性ではない。

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時代遅れの考え方

一見、たしかにそうかもなと思うかもしれない。環境や文化によって客観的道徳が変わるのもあるのかもしれない。

ただ、よく考えてみるとそんなことはない。

人を殺すということは世界共通で悪とみなされている。これは、誰かに教えられたわけではないが、しっている。むしろ奴隷制度などは、この歪められた道徳的相対主義が作り出した産物だったのではないだろうか。

あたかもそれが一般的な基準であるということを主張し、間違った道徳を植え付けられかねない。
それでも、私たち人間は何が良いことで、何をやってはいけないかを本能的に備わっていると思う。だからこそ奴隷制度は撤廃されたし、今後もそういった間違った価値観は淘汰されていくと思う。

ただ、そこにも押し付けられた道徳があるかもしれないので、自分が思っていることをしっかりと自分自身が納得して行動できるか、信念を大事に生きたい思う。


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