#300 [哲学] 存在するとは何か?形而上学の根源を追求した哲学者
第43週 第6日(土)哲学「マルティン・ハイデッガー」
1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365を読破しようという企画。
この本の概要についてはこちらを一読ください。
今日は哲学「マルティン・ハイデッガー」です。
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本の要約
■マルティン・ハイデッガー(1889~1976)
ドイツのメスキルヒに生まれる。1933年から1934年までフライブルク大学の学長に選出され、その後ナチ党に入党した。
ハイデッガーの思想は時期によって変化しているが、常にその中核にあるのは、彼の言う「存在の問い」(「存在とは何か?」「存在するとはどういうことか?」)があった。ハイデッガーによると、これは形而上学で忘れられていた根源的な問いだという。
また、彼が「技術」と呼ぶものへの関心も強めていった。ここで言う「技術」とはコンピューターや機械のことではなく、世界を私たちが自由に使える資源とみなす考え方のことである。ハイデッガーは、こうした世界観に極めて批判的だった。
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「存在と時間」(1927年)
前回のエトムント・フッサールの「現象学」といい、ハイデッガーの思想といい、掴みどころが難しいタイプの哲学は本書を呼んだだけでは全く理解できない。
ハイデッガーの代表作「存在と時間」は存在と存在者を分けて考えることを主張してきた。
人間にとって本質的なことは、「私」と「あなた」、「彼」、「彼女」がそれぞれに、異なった存在であること。つまり各自はそれぞれが「自分だけの」現実に直面しているのであって、現実問題として、その「現実」に対応することができるのは、私以外にはいないわけだという。
確かに、われわれの日々の生き方はそうやって出来ているよな。誰かにアドバイスを貰っても決断するのは自分次第。
主観も客観も結局は自分次第で変わってくると唱えているフッサールとよく似ている気がする。
どちらも難しい考え方だが、自分を見失わないように生きていくことが何よりも大事だということを教えてくれている気がする。