#202 [哲学] 私たちは欲望のまま行動し、その結果、道徳的判断が選ぶ。
第29週 第5日(金)哲学「デイヴィッド・ヒューム」
1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養365を読破しようという企画。
この本の概要についてはこちらを一読ください。
今日は哲学「デイヴィッド・ヒューム」です。
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本の要約
スコットランドに生まれたデイヴィッド・ヒューム(1711~1776)は、若い頃進行していたカルヴァン派を離れ、道徳と宗教について主流と異なる独自の思想を発展させた。そのため過激論者のレッテルを貼られ、大学で職を見つけることができなかったので、商社の社員や図書館司書などの仕事を転々とし、のちに外交官も努めている。
ヒュームの哲学は、経験論と懐疑論を特徴とする。彼は、私達の知識と思想はすべて経験から始まると考えていた。彼は、哲学的概念はすべて何らかの経験によって正当化されなくてはならないと主張した。
道徳哲学の分野では、ヒュームは信念ではなく欲望こそ、人間の行動を動機付けている唯一のものだと主張した。つまり、道徳的判断は世界の客観的な特徴を示すのではなく、私たちの選り好みを記録したものに過ぎないと説いた。私たちは生まれながらに道徳感情を持っており、それによって私たちは、ある行為を嫌い、ある行為を支持するのだと考えた。
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「自然宗教に関する対話」(1779年)
ヒュームの死後に出版された本。この本でヒュームは、伝統宗教のさまざまな教義を批判しており、中でも、神が世界を設計したという主張を徹底的に批判した。
アマゾンのレビューに良いことを書いている人がいたので抜粋。
ヒュームが生きた時代には、ニュートンなどの(今で言う)「科学者」であっても、まともな人間であれば、「有神論者」であり「キリスト教信者」であるのは、当然のことであったのだ。したがって、ヒュームもまた「有神論者」であり「キリスト教信者」であったのだが、それをなかなか信じてもらえなかった、ということなのである。
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そんな時代にあって、なぜヒュームが「無神論者・不信心者であるという風評」を立てられたのかと言えば、それは彼が「懐疑論者」であったからだ。つまり、今で言う「妄信=根拠不十分なままの無条件的信憑」を否定したからなのである。
つまり、「有神論」が当たり前だった時代においてヒュームもまた有神論者であったという前提があり、そのなかでヒュームは「神」という不確かな存在について疑問を抱いていたということになる。
なるほどね。そもそもが神は存在するという前提で世界は回っていた。
その中で、疑問を抱くということ自体が革新的だったのか。
人が言う当たり前って、当たり前でもなんでもなく、ある意味ではヒュームの言っていた経験論に基づいた、「周りがそう言っていたから」というただそれだけなのかもしれない。