娘、ピアノのレッスン最終日。何を感じ、何を思ったのだろう。
#20230526-117
2023年5月26日(金)
ピアノの先生には事前に、ノコ(娘小4)の決断を伝えてある。
今日はレッスン最終日。
ノコはレッスン室に私も一緒に入るよういう。ノコの心がまだ揺れていた前回と違い、さすがに今日は先生もやめる/やめないについて何もいわないだろう。
「先生は、別にやめないでとかいわないよ?」
「・・・・・・それでも!」
レッスン室に先生と2人きりになりたくない、という。
私としては外で待機しているほうが気楽なのだけど、仕方がない。
インターホンを鳴らすと、先生宅のドアが開く。
私と先生はお互い目を合わせ、小さくうなずく。
「もうこれは本人の意思だから」と声なき思いがそこにある。
最後の練習曲はたった1曲。
この1週間、ノコは片手ずつ1回しか弾かなかった。
右手、左手、片手ずつの演奏を聞いた上で先生がいう。
「じゃあ、両手で弾いてみましょうか」
グランドピアノの譜面立ての向こうにいるノコの表情は見えない。
音が聞こえないということは、首を横に振ったか、だんまりか。もしくは先生を睨めつけたか。
ノコは学校の先生、習い事の先生といった大人に対しても我を通す。
拒んだら気まずいという感じがない。体面も面子もない。
私にはその一貫性が不思議であり、縛られないことにある種のまばゆささえ抱くけれど、見方を変えれば「家での顔」「外での顔」の区別がないともいえる。
ひとくくりにしたくないが、4年生にもなれば、家で親に見せるワガママや強情さは外ではのぞかせないようにすると思う。
それがノコにはない。その我の強さは、甘えにも見え、ノコには家族以外の外の大人に対する「外面」がないのだと感じる。大人を信じ、甘えている、というより、家族と家族以外の境界線が曖昧なのではないか。
「家族」って何なのだろう。
生まれてからむーくん(夫)と結婚するまで長く長く実家にいた私には、あまりにもあって当たり前の存在過ぎて考えたことがなかった。
里親になり、里子であるノコと暮らすようになってから、よく「家族」にぶちあたる。
弾かないノコ。
仕上がらないため、先生も終了の丸印を譜面に書けない。
最後なので、次の課題曲にも進めない。
実に歯切れの悪い最後のレッスン。
早くにレッスンが終わってしまったので、私は「大人のレッスン」開始に際して何を準備したらいいのか、先生にお尋ねする。
大人同士の会話のなか、ノコは所在なげにレッスン室をうろうろする。
「さぁ、帰るよ。ノコさん、先生に最後のご挨拶は?」
「こんにちは? こんばんは?」
「・・・ここは『3年間、お世話になりました。ありがとうございました』だと思うよ」
「3年間、お世話になりました。ありがとうございました」
オウムのようにノコが繰り返す。
帰り道、夕刻の人が行き交う商店街の狭い歩道をノコと前後になって歩く。
「スッキリした気分?」
前を歩くノコが不思議そうに振り返る。
「スッキリ?」
「だって、もう毎日練習しなくていいんだよ。解放されて、スッキリしたんじゃないの?」
ノコが「意味がわからない」といいたげに、どこを見ているのかわからない黒い目で小首を傾げた。
ノコの9年の人生において、おそらくはじめて「自分で決断した別れ」だ。
卒園や進級による先生やお友だちとの別れはあった。施設の保育士さんの異動や退職による別れもあった。
大きな別れはなんといっても実親との別離。乳児院から児童養護施設への移動。それから児童養護施設から里親である我が家への委託先の変更。
施設から我が家への引っ越しは一応ノコの意思を確認した上ではあったが、すんなりいかなかったし、大いに荒れた。本人のなかで、もしかしたら無理矢理だった気持ちがくすぶっているかもしれない。
振り返ると、どの別れも期間によるものだったり、大人の事情によるものだった。だが、今回のピアノの先生との別れは違う。
本人が決めたはじめての別れだ。
表情からはノコの胸のうちはわからない。
ノコは何もいわない。
その晩、数週間振りにノコが夜泣きをした。
吠えるように泣きながら、居間のドアを開け、むーくんの手を取ると自分の部屋へ連れていった。
ほどなくしてむーくんが戻ってきた。すぐ眠ったという。
なんでもかんでも結びつけて考えたくないが、今日の大きな出来事といえばピアノをやめたことだ。
ノコの心に何か波が立ったのだろうか。