「わかりやすい」離乳食。
#20230712-163
2023年7月12日(水)
50歳あたりから、ノコ(娘小4)や年下のむーくん(夫)より自分の体調が最優先になった。
2人をないがしろにしているわけではない。自分の元気が結局家族の元気につながるし、我が家で最年長は私ゆえ、年々回復に時間がかかる私を最優先にするのは当然といえる。
用事がなく、かつ雨天でなければ、ノコの登校後に走りに出ている。
スロージョギングと呼ばれるもので、息があがらないゆっくりとしたペースで20分ほど走る。距離にして3km弱。
運動は長いこと苦手で、体を動かす心地よさは大人になって知った。これも楽しくて走るというよりは、体調維持が大きい。ただ走れば、気持ちよくて、結果楽しく終える。
走るときのお供は、音声プラットフォームのVoicyだ。
ネックスピーカーを首にかけ、Voicyを聞きながら走る。
専業主婦の私の話し相手は、ノコとむーくんだけといっても大げさではない。そんな私にとって、今やVoicyは読書と同じくらい「外界とつながる窓」になっている。
フォローしているVoicyのパーソナリティ尾石晴さん(番組「学びの引き出しはるラジオ」)が宮野公樹さんの番組「哲学のぼやき。」を紹介していた。おもしろそうだ。
今日、早速走りながら聞いてみた。
再生したのは「わかりやすい」って何さ。それが一番大事なわけない。の回。
いきなり長いため息ではじまり、吹き出してしまう。
こんなスタートははじめてだ。明るく元気に開始する番組が多く、いつのまにかそれが「普通」だと思っていた。なんたるギャップ!
私が「哲学」に興味を持ったきっかけは、母の学生時代の思い出話だった。履修した哲学の先生の講義はチンプンカンプンだったが、ぼそぼそと話す先生が時折楽しそうに自分自身の言葉に「ふふふ」と笑っていたという。中高生だった私にはそれが強烈だった。残念ながら母には先生の語る哲学の楽しさは伝わらなかったようだが、私は興味をそそられた。
大学に進学すると、哲学を履修した。はじめての哲学の先生はマイクでも聞き取りにくい声量で話し、黒板に向かってチョークを走らせ、母の先生と同様やっぱり嬉しそうだった。その講義は私には難解で、苦労してレポートを書いたものの、先生のように楽しむことはできなかった。
社会人になり、30歳手前で再度大学へ入学した。専攻は哲学ではなかったが、一般教養科目にあった「哲学」をまたもや履修した。そこで出会ったテキストが読み進めるのがもどかしいほどおもしろく、刺激的で哲学のおもしろさをちょっとだけ覗いたように感じた。
「哲学のぼやき。」を聞いていたら、それらの出来事が体の奥からよみがえった。
走りながら、笑ってしまった。
怪しい人になってしまうが、どのみち酷暑の午前だ。ジリジリと焦げるような陽射しのなか、住宅街の遊歩道に人はいない。よくすれ違う犬の散歩だって、今や日が沈んでからだ。
私がにやけながら走っていても気付く人なんていない。
「わかりやすい」って何さ!
ノコの「宿題わからない」にどう教えたらいいのか、日々頭を抱えていた。
宿題の問題だけではない。
友だちとのやりとりのなかに、TV番組のなかに、私とむーくんのお喋りのなかに、ノコの「わからない」はあふれている。
「どういうわけ?」
「なんでそうなる?」
ノコのわからないをほぐす度に、それはあくまで私のほぐし方であってノコがノコ自身の手足頭を使ってほぐさないと納得できないのではないか、ともやもやした。だが、ノコは「答え」を簡単に求め、ノコの体を使わない。
「わかりやすい」って、離乳食のようなものだろうか。
幼稚園児から我が家に来たノコに私はミルクも離乳食も与えたことがないので、イメージしにくい。
「わかりやすい」って何だろう。
成長の途中で歯や嚥下する力が未発達な体には、離乳食は必要だろう。だが、歯が生え、飲み込む力がついてきたら離乳食はむしろ害になるのではないか。
過ぎたる「わかりやすい」がそれに重なった。
やさしさは、いつまでもやさしさではない。