嫌儲は資本主義。ネトウヨとパヨク(イデオロギーの異なる”リベラルな状態を目指す”社会主義)を養分とする自民党が日本製共産主義。

A「自分が投稿した文章を、勝手に、まとめサイトにまとめるな」
B「まとめサイトによる収益化は経済活動、資本主義だ。これを否定するものは共産主義者だ」

 Bは嘘つきだ、資本主義も、共産主義も説明できない人が、本邦において「経済を回す事が資本主義だ」と誤認している。経済を回す事は手段ですらない。経済活動で必然に生じるのは、末端の消費。国民の購買の能力や意思を無視して、政治的に経済を回す主義とは、消費の強制主義である。「個人単位の消費活動の強制、及び、模範的消費活動を設定させる政治思想」とはなんであるか?共産主義である。

 教条的な共産主義者「社会を労働者に最適化される事で、資本主義社会の達成できなかった既存の国家の超越、国境の緩慢を目指すものが共産主義であって、スターリン主義も、クメール・ルージュも、なにがなんであろうと貴殿の批判する社会体制も、共産主義と呼ぶ事は、我慢ならない。貴方の傲慢な態度は残念でならない。共産主義は勉強が必要な高尚なもの」

 なんと言われようと社会主義とは成果の共有財化であり、共産主義とは消費活動の共有財化である。

 マルクス主義の詠う私有財産とは、”生産手段の占有状態に限っている”と、共産主義者は念を押してくるが、生産手段を国有化した後に、個人財産をあらゆる手段で抑圧してきたのが共産主義の歴史である。ユーロ・コミュニズムや、空想的社会主義、立憲君主制重福祉国家の文脈は地域経済に考慮した適所適材の集産システムを構成しつつ柔軟に対応し現存に共存するに至る。

 「報酬」の共有財化については、議論が分かれるため、本稿では省略する。本邦に蔓延する「報酬の共有財化による俗説的ソ連崩壊論」を補完しかねない言説は回避しなければならない

 私は先人に倣い、国境を超越するなどというどうでもいい戦略達成のために、帰結的に共産主義者を尊重する事などできない。
 成果も報酬も消費活動も自分のアイデンティティでなければならない。政府がその過程で邪魔な時も多々あるが、私はアイデンティティの為に既存の政府を不要と断じるほど自惚れてはない。一方で、政府が私(あなた)のアイデンティティを保証しているとは絶対に言わせてはならない。後述するがアインデンテティーを保証するという善業は国家には根本的に向いていない役割なのだからだ。

 生産者であるAが経済活動から除外されている段階で、まとめサイトは海賊版ですらない。海賊版ですら顧客は「Aの作ったもの」を買いに来ている。まとめサイトが害悪なのは、「パッケージはBが作った」ものであることは良しとしても、「AはBの意思」として扱われる事である。

 すなわち根本的な解決案は、Aへの還元、Aのパッケージで発信する等、Aのアイデンティティを剥奪しないという、Aの可視化できる人権=私有財産権を考慮することだ。

 とはいうものの、労働者の仕事に、名前は残らない。かと言ってそこにアイデンティティの剥奪が生じては、だれも働かない。

 よって採るべき資本主義社会の理想形態は、会社や法人、市場全体が社会の最大の奉仕者として機能する事であり、従業員はアイデンティティが剥奪されることがなく最大の奉仕者のサポートに徹する状態である。

アイデンティティを剥奪された労働参画、経済活動は奴隷制のバリエーションでしかない。

 しかるに、本邦において上記の”理想論と罵倒され続ける業態”に接近する有益なサブスクリプションサービスや、シェアリングエコノミーが誕生しなかったのは、奴隷制を是とす蛮族が、人権を市場(いちば)に持ち込む事を弱者への憐憫として受け入れなかっただけに過ぎない。2000年代のブラック企業蔓延問題も2010年代の外国人研修生問題も根は同じなのだ。

 ブログという市場に、名も無き人を名も無きままに、経済活動として集産体に統合される事が称賛・推奨される。まとめサイトの台頭と、嫌儲民の”全くの”謂れなきアカ認定は、2ちゃんねるにあったリバタリアンマインドの文脈を破壊し、読み手の思想の、集産的側面とアイデンティティポリティカルに基づいた国民の分断を加速させた。

 すなわち、営利目的のまとめブログを元に時事問題を考えるという事は、消費活動の強制を受け入れる事=共産主義者であると自任するべき事だ。

共産主義ほど共同体を構成するもの中で特に経済を重視する思想はない。

 奴隷制といえば、まるで中世の暗黒時代やアメリカ開拓の黒人奴隷問題を想起させて共産主義という言葉を用いる事は不適切であると、反論される方もおられるだろうが、共産主義はその理念に反して、全体主義による全体の向上ではなく全体の下落、悪平等の蔓延を推進するものである。奴隷が私有財産であるか、国家の共有財産であるか、奴隷の身分になったとき「であるか?」が本当に重要なのだろうか?共産主義を理念に刻む限り、奴隷にはならないと強弁される皆様においても、共産主義を決して受け入れない私からみれば、共産主義という永久機関を動かすために、奴隷自身が「奴隷制をとこしえに」と大合唱している奇妙な光景にしか見えない。
 左翼「それでも、日本は、「最も成功した社会主義国」だ。だから今以上に私有財産を主張し資本主義を妄信する事=新自由主義に傾倒する事は、富裕層にとって有利でも社会全体にとっては望ましくない結果を生む」

 古典的自由主義やアナルコキャピタリズム(以下蔑称としてアナキャピと省略する)の主張は、企業や市場が国家以上のコミュ二ティーを形成するに至ると、そこに国家以上の共同体が出現し、しかもその共同体は多文化共存を是とし、国家の役割は最小限のスペックに抑えられ、戦争は起こらなくなるというのだ。

 でも彼らは共産主義を信奉しなかった。それは古典的自由主義やアナキャピが、私有財産を差し出す事を是としなかった。
 しかし、前述のユートピアを目指すのなら共産主義を標榜している方が、いくらか現実味はある。正しい再分配するんだから正しい消費が存在している。小学生でもわかる事だ。

 右翼「市場が無限の金(gold)を産出すれば、共産主義も古典的自由主義の主張も解決できるが、物理的に不可能である」

 上記の反論はそもそも、市場に理解がない。無限に産出される金(gold)は金(money)でなくなる。
 本来の市場は金(money)でも金(gold)でもなく、新しい価値の生産を行う”場所”である。モノではなく価値を作るのだから金(gold)を無限に生産する”装置”よりも、遥かに現実的に共産主義者と古典的自由主義者の要求に答えうる存在である。

 一方で、古典的自由主義者は市場の放任こそが、「本来の市場」であると原理主義的に啓蒙する。

 これには反対である。市場には正確な生産を行う必然性(危険負担)はあっても、正確に啓蒙すべき事実は、「国家に正確な再分配を行う必要性はない」という事のはずだ。ましてや古典的自由主義者や共産主義者の為に市場はユートピアを作る必要はもっとない。そんな国家への不満を「親を選べない」という表現があるが、正確には刑務所は選べないと例えるべきのである。

 私は必要悪という女々しい言葉を好まない。私は、私の意思で囚人が苦痛を望み、囚人の更生に期待する。

※本邦の刑罰はすでに旧態依然な罪人からの搾取が最大目的と言って差支えがない。本質的に刑罰とは搾取ではなく共同体にとって良い作用を起こさなければならないが、本稿ではこの際の批判は省略させていただく。

 刑務所に限らず、国家の役割とは悪の代行者であること、最大の奉仕者である事。市場は金ではなく新しい価値の再生産を行う場所。役割分担というよりも、代替えのしようが無い概念だとを忘れてはないだろうか?

 悪の代行者がいなくなれば。止む無く市場が引き受けるしかない(アナキャピ談)。市場が悪を再生産する事は社会にどのような害悪を及ぼすか計り知れない。私有財産を侵害する恐れがある商品やサービスを平然と排出するだろう。

 具体的には奴隷と、麻薬と、麻薬とSEXを組み合わせた売春宿、麻薬を利用した自殺幇助。これらにさらにVRを組み合わせたらさらにすさまじい利益が上がるだろう。銃規制が存在しない為、個々の自衛の為に人生の大半を費やす馬鹿げた浪費や、まるで古代中国のごとき権力者の延命のための人体実験も平然と……諸々筆舌に尽くしがたい。最終的には「軍隊」を販売するだろう。軍隊が販売されるころには中世の暗黒時代よりも凄まじいレイプや拷問、殺し合いが横行し、路肩のホームレス同士の人肉食は当たり前、軍隊の所有者は手当たり次第に軍隊を持たないものを殺戮し最終的には宗教を発明し、自己憐憫に酔うことに明け暮れるの糞袋になりさがる。なお、それは何代も続く。

 例えば、麻薬は統計上、私有財産の破壊者である。多くの人間の全ての価値を麻薬に置き換える。麻薬に限らず、禁止・解禁の決裁こそ国家が行うべき悪の領域である。

 まとめるにあたって「市場」と「国家」それぞれ性質の全く異なる存在は、「人間」という生き物の社会性によって作り出され、存続が許されてきたのだ。

 市場を破壊する共産主義も、人間を破壊する市場原理主義も、「国家」「市場」「人間」のより本質的な、擬人化されていない相関図を描く事ができないはずだ。

 立憲主義は国家という悪を制御する為に生み出された。それについて「民主主義を守る為」、「権力から市民を守る為」とまるで市民や、その市民が参加する民主主義は、国家が悪なのだからソレらは善玉だ!と、言わんばかりの性善説由来の奇妙な認識がリベラル諸君の間では支配的である。

 リバタリアンの立憲主義とは、憲法が守るものは国家でも民主主義でなくその逆で、国家と民主主義から、私有財産権=可視化できる人権を守るものなのでる。

 そもそも日本国憲法には平和という文字は幾度となく出ても民主という言葉はほとんど記載しなかった。
 平和憲法は左翼から高尚とされる一方で、左翼も右翼も忌み嫌う、リバタリアンの私有財産の執着を擁護しているのだ。

 しかるに、平和憲法を守る事(action)は護憲を呪文のように唱える事(thinking)では無い。平和な状態を維持する為に多角的要素を直接民主主義のアプローチによって発信し続けることである。その中に護憲という言葉はあっても、戦争をしたくない為の反戦(thinking)か、私有財産を守るための反戦(action)か、多角的なアプローチを取れるのは、私有財産というものが多様な形態を持つ事から後者であることは明白。

 国家存続だの国の事を考えて反戦、平和国を対外的に示す為の護憲などというのは、国のための”増税に首を縦に振る”国家主義者だと告白しているようなもの。政府にとって都合のよい国民でしかない。

 近似が指摘される北一輝の大日本帝国憲法批判の中に垣間見える「国民の天皇論」との決定的な違いは、北が想定していた民主主義憲法の域を脱していなかった事であり、皮肉にもアメリカの押し付け憲法が、意図せず民主主義でもなく国家主義でもなく、リバタリアンに利する憲法を作った事は驚愕に値する。

 ただし、軍隊の放棄、国家元首の不在という本邦の確約的な独立を曖昧にしている点や、労働の義務という教条的な社会主義の条文が組み込まれている点は、改憲を要する問題点であると指摘しておく。

 まとめるにあたって、戦後70年、日本国民は成功した社会主義を可視化していた訳ではない。三代にわたる私有財産の形成を見てきたのだ。

左翼「民主の文字を掲載させなかったのはGHQの陰謀である」
右翼「平和憲法はGHQの洗脳である」

 歴史を紐解くと、GHQが最初に取り掛かったのは自治体警察の創造だった。すなわち国家権力でない都道府県警の創設である。

 結果は皆まで言うに及ばず都道府県警が国家権力を自任する社会主義の教義に忠実な警察法が本邦に定着した。

 しかるに本邦がGHQ、ましてや米国防総省ですらなくCIAにコントロールされている事など、大前提が狂っている。

 東西冷戦の結果にも目を向けよう、右翼はケツを差し出して「アメリカの勝利(◍>◡<◍)」、左翼は眉間に皺を寄せて「アメリカの勝利(# ゚Д゚)」と総括する。これこそが、そもそも大きな間違い。

 ソ連崩壊の原因は、東欧革命=各国の民衆が共産党、科学的社会主義政党打倒した、リベラル民主主義の勝利であると総括された歴史がある。私は、新たに「党の支配」からの脱皮であると、本稿において提案する。

 そしてまたして皮肉な事に、冷戦の真の勝者は日本である。長期の戦いで疲弊したアメリカ、東欧革命の混乱を受けたヨーロッパではなく、緩衝国として位置していた筈の日本だったのだ。

 朝鮮半島の惨渦、ベトナム戦争は冷戦全体を俯瞰するにごく初期の出来事であり、文字通りの”冷戦”となるように急速に経済文化のソフトパワー闘争へとシフトしていった。核兵器開発のイメージも強く残るが、キューバ危機ですら1963年に起こった事である。

 その冷戦本番初期から、1960年~1980年の日本経済成長を世界中が褒めたたえた。一人当たりのGDPならアメリカを抜いた。日本製品を脅威と見なしたアメリカ労働者は日本製品を破壊する非生産的な主張を繰り返した。アメリカは新自由主義の奇形児レーガノミクスにより双子の赤字を生みだした。

 然るに、今日の反自民党論者の提唱する、アメリカ型の新自由主義の影響を受ける余地が、本邦にはそもそも存在していない。一部、民営化は起こったが公務員の労組解体や、利潤構造の転換に留まり、JRを見るに満員電車による暴利の回収と、寡占された過疎駅維持のための自治体と国の対立構造を演じるに全く滑稽な民営化であると、失笑せざるを得ない。

 そもそも新自由主義を当てはめるのに適切なのは、リーマンショック後にも金融介入を行わなかった日銀の前総裁であった白川氏と民主党政権である。白川氏と、政権発足時の代表鳩山氏の経歴を見れば一目瞭然だろう。

 CIAやGHQを持ち出す輩、冷戦末期の日本一強時代を認めない輩は反日勢力や新自由主義だの自分で説明できないものを脅威として喧伝する。近代史を蔑ろにしている。

こんな奴らが日本人の大多数なのである。

反日勢力の目的を5W1Hで答えてください→「反日だ!それが敵のすべてだ!私は複雑怪奇な敵の複雑怪奇な真実を知ったのだ!」
新自由主義の目的を5W1Hで答えてください→「新自由主義だ!それが敵のすべてだ!私は複雑怪奇な敵の複雑怪奇な真実を知ったのだ!」

こんな奴らが 子供たちを 育てているのである!

「「お前は中二病患者だ!偉そうにするな!本当に日本が冷戦の勝者なら、失われた20年はどう説明するのだ!!」」

失われた20年は、国民の大多数が日本が冷戦の勝者だという認識を欠いたまま、米国を覇権国と認識し、生産手段を転換せず世界の工場=メイドインジャパンのままでいる事を選んだことによる、プロデュースバイジャパンへの変換を怠った事が原因。国産信仰こそがナショナリズムの成れの果てだ。

 商売を替えたい真っ当な資本家に対して、大量の労働者抱えていた為、かれらを確保し、メイドインジャパン信仰を現在も続ける大企業と、その労働者を票田に転換することで利潤を得たのは他でもない自民党と言えよう。
 基本的に自民党はアメリカではなく、自民党の利潤を守る為に動いていると考えてよい。アメリカが日本を支配できるリソースなど持っていないのと同様に、日本もまた冷戦勝利後は狙われる立場に立っている。

残念ながら超巨大与党が、ナニを守る為に、アメリカに時として遜るのか、近代史の更なる研究と既存のメディアによらない取材が今後必要不
「「対案を出せ!お前らは対案もなく私たちを、蔑ろにしている」」

プロデュースバイジャパンを提唱にするにあたっては、新しいインフラ作ればよかったんですよ。Windows、iPhone、オクトコプター、日本人がオタクのおもちゃ言うてたしょーもないものを海外拠点で作ればよかったんですよ。

「「それにはスティーブ・ジョブズような人が~」」

 かつて本邦には山内博と横井軍平がいました。山内は花札工場の社長、横井は工場で仕事を全力でサボってたビルメンおじさん。二人とも日本人がヤクザとかビルメンとかいうていじめてた、本邦の計画経済の外、勤労の義務の外にいた人種です。二人の会社は任天堂といいます。

 誇張ではなく、山内氏は博徒相手の商売からの脱却を目指し、新しい顧客獲得の為に様々な事業に挑戦したのではないかという説がある。横井氏に至っては、仕事を全て片付けた上で、おもちゃを作ってサボってる所を山内氏に見つかって、事業開発部に引き抜いたのだから「商売を替えない資本家」「一所懸命な労働者」の神話を覆すお手本なのだ
「「たとえ人がいたところで、日本の高度な技術は国内でしか再現できないし、国外に流出してはならない」」

GN125やYB125、ベトナムカブをご存じでない?世界4大2輪メーカーのうちの3社スズキ、ヤマハ、ホンダは、壊れない。壊れても自分で修理できる。極めて非地位財的なインフラオブインフラを、日本では絶版になった古い設計図を元手に作られています。枯れた技術でもいいんです。これらは、現在、日本の金のない若者のインフラになっています。
iPhone、技術的な面では枯れた技術の水平思考です。最新技術を投入するだけなら日本だけでなく、HuaweiやSamsungでも最新技術は投入しています。

 プロデュースの手腕は、職人の優れた手腕を証明する事ではない。顧客の需要に答え、顧客の言葉にできない欲求を読み取ることである。

「「お前の擁護する嫌儲とはなんだ!胡散臭い!どうして”同じリベラルな状態を目指す”我々を攻撃するのだ!」」

まず、リベラルを主張する人たちの何がダメか5w1hで教えてあげますね。

Who(だれが)リベラルを自称する日本人が
When(いつ)SNSでの政治談議の時
Where(どこで)同じ目的・場所に行きつくという変な前提
What(なにを)私有財産の使い方や、表現の自由の行使の場=市場
Why(なぜ)リベラルな状態を目指す共同体に組み込む為
How(どのように)自分が、意見の異なる相手より、リベラル的に優位である事という独りよがりな主張を通すため、私有財産よりも、可視化できない人権や民族の定義を押し付ける

同じ事を目指しているという事が自体が、全体主義を特徴づけているといえる。私は”リベラルな状態”を目指すという事に興味がない。我々の方が右(左)よりリベラルなんだと言われてもリベラルがなんなのか説明できない人たちに「お前もリベラルな状態を目指してるんだろ?仲間じゃないか?」とそういう事をSNSの政治クラスタは喧伝する。

 同じ収入にしたとしよう、それでも、年収400万円と月収35万で物を考える人では目指すものが違う。

 日本語のリベラルという単語は「独立よりも平和、自由よりも平等、可視化できない人権を保障する為国家は私有財産を制限するべき、国家による国民の物質的豊かさの追求、代議制民主主義の妄信」を意味するというのが私見だ。 リベラルの価値観に基づく豊かさは国家や自然の恵みからコクサンされたもので、私有財産で成し遂げるのは豊かではない。暴利をむさぼる反日ないしは新自由主義だというのだ。

 また、リベラルな状態を目指す輩は、なにかにつけて人造的な力を全力で否定する。非科学的な反原発や、靖国皇國戦史観、日本はアメリカや特定アジアの支配下といった陰謀論だ。

私も反原発であるが、それは政治的に解決すべき問題ではなく、直流家電の普及、直流発電システムの構築、蓄電池の使用諸々、まさに私有財産で賄うべき領域。消費者のライフスタイルを変えていかなければならない。単刀直入にいえば、需要があるから、原発があるのだ。原発が怖いなら、私有財産を揃えて、電力会社を合法的に破綻させればよい。

 私も大東亜戦争という呼び方を嫌う、それは大日本帝国を恥と見做している訳ではなく、国際的な歴史観に対して、当時の日本の立場を弁護しきれていないからだ。論証として弱いから支持できない。近衛文麿を知らないで東条英機を批判するようなものだからだ。

 私有財産を手に入れたり、守るのは、共同体の力と異なる、人間的な力だ。

 人間の力とは何か?金か?腕力か?嘘をつくのが上手いことか?

力とは、任意の資源にアクセスする為の「手段の多さ」「スピード」「資源の使い道の多さ」である。

嫌儲とは豊かさの追求ではなく、力の追求、私有財産の追求を根差す。これの歴史的経緯を語るにはまず、2ちゃんねるについて解説しなければならない。匿名掲示板は、本邦で政治哲学の傍流とされていたリバタリアニズムの文脈が咳を切ったように現れた。それは全くもって瞬く間の出来事である。


 かれらの主張が反社会的と見なされた事も面白い、「非社会的なのだから反社会だ」というのだ。

「2ちゃんねるが生み出したのはネット右翼であると指摘もあるだろうが!」

 そもそも最初にネット右翼を発見し攻撃したのもまた2ちゃんねるの住民だった。ネット右翼VSリバタリアンの構図が正確である。
 2ちゃんねるは板によって自治が進み、板ごとに生息域が分かれておりネトウヨは現在にいたり少数派と言ってよい。

 ネット右翼の拡散拡大は、2ちゃんねる以降のSNSや動画配信サービスの発展期であると言ってよい。リバタリアンの巣窟ではその存在を維持できなかった。

 現状、政治に関心のある日本人はリベラル右派とリベラル左派をそれぞれ自称していることが多い。リベラルな状態を目指すからリベラルを自称している訳だ、再三繰り返すが、日本語のリベラルは、「独立よりも平和、自由よりも平等、可視化できない人権を保障する為国家は私有財産を制限するべき、国家による国民の物質的豊かさの追求、代議制民主主義の妄信」である右派社会主義VS左派社会主義と言ってよい。
 政策は反市場、イデオロギーありき、課税対象の変更といった具合で、既存の中央集権型民主主義国家の体制維持である。

再分配は行うが、地方分権は行わない。

リベラルの民主主義は正しい再分配を主張する結束主義
リバタリアンの民主主義は私有財産を主張する分権主義

私は後者である。再分配を唱えているが、分権は唱えない。大きな政府をコントロールできる、正しい再分配ができると自らを盲信するのがリベラルで、リバタリアンにとって民主主義は分権主義でなければならない

保守派は自分は信じない
リベラルは自分を信じる
アナキャピは自分しか信じない
リバタリアンは自分すら信じない

自分の延長が国家か、国家の末端が自分か、いずれの視点においても、自分すら信用しないものが、巨大すぎる国家には何一つ期待できない。

アナキャピの言葉で唯一共感できる言葉がある「国家は神よりも危険である」と。

私は、私の意思で国家は危険であるべきと考えるが、アナキャピは「(神様である私に)逆らうなんて」という認知障害の症状を見せるのが残念である。

我が国を小国とかるんじる輩は、本邦が世界でも有数の巨大政府である認識を欠いている。

 我が国は日本列島に居住する多民族国家であったと考える。明治人は、決して天皇を神格化せず、日本人というよりも武蔵国と言った令制国の生まれにこだわったとされる。
 日本民族を単一民族とみなすようになったのは、奇妙な事に55年体制の発足を起点としている。多民族日本の統合を成しえた上に立つ天皇がおられるのだ。
 日本人を単一民族、同一価値観と断じるものはヤカラである。

話を嫌儲に戻そう。

 そもそも株を一株単位で買えない、これにより、消費者は円高歓迎論に帰結する。
 土地はともかく、恒久的な家屋(壊れない・修理できる・自分で作ったに該当しない)を建てられない。
 ライフステージなる造語で、固定資産の売却を推進し、終わりの住処に賃貸を推奨する。
 自動車通勤を禁じているのに、自動車を所有しない事は「男として一人前ではない」「立派な父親になれない」とマッチョイズムまで振りかざして、負債としての自動車の購入を推し進める。しかも公共機関や税金、燃料税まで考えるに、あなたの自動車はあなたのモノではなく、国家の所有物である可能性があり得るのだ。
 これら大きな買い物が私有財産として機能しない。これが消費の共有財産化と言わずなんと言えば良いのだろう?

 嫌儲とは、既存の集産的な産業構造への反骨と、20世紀型のライフスタイルに異を唱える2ちゃんねるの本流たるムーブメントである。

安倍政権は戦後レジームの脱却ではなく、従米勢力と新自由主義による戦後レジームの完成

と、真っ当な保守諸氏は警戒されている。だがそれ以上に、嫌儲民が、2(5)ちゃんねる民が、名もなき日本人リバタリアン個々が本質的に警戒すべきは、

「戦後レジームの脱却=日本型社会主義の新自由主義による崩壊でなく、戦後レジームの完成=自民党型共産主義への先鋭化

であると、ここに提言する。

 一方で、日本のリベラル左派を自称する者は、どこか呪詛的な自民党の扱いを是正し、自民党を本当の意味で総括しなければならない。

自民党は「マッチョイズム」「資本主義」「自衛隊の味方」と言ったモノだ。
支持者には強く、反対者には“より強く“そのイメージが植え付けられている。

お願いですから「ヨボヨボの老害が計画経済を主導して、自衛官に「お前らは国民から迫害されている!ワシがお前らを国民から守る!」といばり散らしている」この事実を可視化してください。

 その上で、自民党こそが、右派左派の意見を器用に取り入れた人類史上最も洗練された社会主義政党であるという矛盾の受け入れる事は必須となるだろう。

同時に自民党は今後、50年ほどの時間をかけて下記の国家改造を行うと、予言しておく。

・自衛隊を国民の軍隊から、自民党の軍隊に改造する。
これは、護憲派最大のミスリードによって実現しつつある。
自民党は戦争できない政党です。
直近の問題で言えばイージスアショアで測量できない。韓国のレーダー照射問題で自衛隊の潔白を証明できない。中東の地図が描けない。
過去を振り返れば、この政党が、まともな作戦立案能力を持ち合わせていない事は明白だ。戦争をする為の改憲ではなく、「自衛隊を国民から奪い、自民党の軍隊にする為の改憲である」と断言します。改憲=戦争国家論者は自民党を過大評価しすぎです。あいつらは戦争できる度胸もオツムも足りていない。自民党の改憲の目的は「国民に迫害される自衛隊を救う=建軍の大義を自民党に持たせる=自衛隊を自民党の軍隊にする」アジテーション。国民から国防を取り上げる事です

・単一民族日本人の完成
 明治大正昭和初期の天皇の治世を超える時間をかけて、自民党は単一民族論をこれまで以上に推奨する。
日本人は、諸国の諸民族でなくなります。天皇が帝でなくなる。

・皇室の侵略ないしは、断絶。
 ハプスブルク家について調べて欲しい。あれは近親婚だが、こちらは歴史上類を見ない科学的なアプローチで男系を推奨している。Y染色体の発見は明治38年だぞ?
パッと出のY染色体ごときに、天皇の権威はない。
天皇の権威とは、陛下が、日々、国民のために祈られ、国民の普段の努力の賜物である。
女帝誕生こそが、皇室の未来を守る事につながるのである。

天皇を葬った後、自民党は日本の最高権威の機関として君臨する。

 筆者はこの絶望的な、亡国の予言を自民党が達成する事を、目の当たりにしている。
 恐るべき日本改造に対抗するには嫌儲思想の体系化による日本人改造であると提言する。

 そのactionは、消費活動の根本的な転換(直流発電の個人所有)、労働手段の根本的な転換(印鑑文化や紙文化の追放)、教育・国防の21世紀型システムの転換。嫌儲の再評価にあると私は確信している。

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