調律と私
こんにちは。
よく耳にする言い回しでこんなものがあります。
「自己責任だ」、とまあこれに類する台詞の数々。
もしかすると「連帯責任」も付与するかもしれない話です。
いつも通り私の個人的なお話しです。
よかったらきいていってください。
確かにそうと言えばそう。否と言えば否。
私は一年弱程、このnoteという場に居て、身を置き、日々転んだりしながらも自分の心のうちを書き散らかしてきました。
時に、いえしょっちゅう誰かを傷付ける抉る強いでは済まされない表現もしてしまいました。
人生の中で「私という事実」という表現をここでは用いますがそこは変わりません。
では私に何が起こったか。
何が変わったかは明白です。
私に関わってくれるひとたちが変わった。
私を囲んでくださる顔ぶれが変わりました。
私の表現では「仲間」と呼んでいる人たちのことを指します。
「庭」と表現しているものでもあります。
つまり、私がここでいつも述べている「あなた」
「私たち」「皆さん」の事です。
「ともに」、「いっしょに」を私が願い、望むあなたの、皆さんのことを私はその対象としています。
もし私が楽器だとして。
バイオリンでもピアノでもギターでも、それ自体で調律というのは出来ない。
ひとりでに演奏が始まらないのと同じなのに、私は自分のこととなると途端にそんな基本的な事がわからなくなっていました。
専門家の調律。
その楽器を奏でる。
楽器そのもの。
少なくともこの三つが必要です。
そういった事に思い至る今です。
更に響きを生み拡げる空間、譜面等々、
ひとりで演奏を楽しむにしてもこれらは欠かせません。
「なんとしてもひとりでなんとかしなくては」
「これが必達できないのなら全責任は私にある」
「何としてでも」
という私の重たいリュックサックは今確かに降ろせた。
そう感じています。
いつもあなたのご協力に感謝します。
ありがとうございます。
今後ともどうぞ御贔屓に末永い御愛顧をよろしくお願いします。