近況報告と、最近ものがたりを摂取するとき感じていること
amphibianです。
寒すぎて鼻水が止まらずセーターを出した朝、noteから「サービスに参加して5周年おめでとう」とか言われて凍り付きました。
光陰はかくも我が速度感覚を凌駕するか。一瞬で寒くなるわけだ。
確認すると記事を書き始めたのは2年前でした。そんなもんじゃねえかよ。
サービス登録したのはずっと前だったというだけでした。
鼻水はまだ止まりません。
不定期報告
TGD3にて開発中の自作インディーゲームについて紹介しましたが、現在もバリバリ開発中です。
発足時は「試作」という建付けだったのですが、現時点ではもはや「試作」の域を逸していると思っています。
全面的にいまできる全力で臨んでおります。
そのために時間はまだまだかかりそうですが、その分「本気」を見ていただけるモノになりそうに思っています。
なお停滞を危惧されている方もおられるかと思いますが、開発はコンスタントに進行しております。
ただリソース・管理能力・インディーゆえのもろもろの事情でなかなか確定的な日程を出すことは難しいなと実感しています。
すまぬ。気長に待ってくだされ。
詳細出次第、ここやWEBサイト、X(旧Twitter)などで紹介します。
まえふり
がんばってます宣言で予防線を張ったところで、2年でこの記事数はカスのそしりを免れないでしょう。
【やりたさ】
そもそも自分語りは好きだ
他にも書きたいことは色々ある
記事は書きたいことだけ書けるからテキストいっぱい出せてキモチイイ
【やれなさ】
金にならねえ
いま生活が苦しい
記事がお金になるようなやり方を考えたいけどなかなかまとまらない
記事のこと考えてると軽く数時間ふっとぶ
仕事をしろ
ゲームをつくれ
インプットもしろ
ギエエ
そんな現状をかえりみても、自分がnoteでやっていきたいことを形にするためには、少しずつ手を動かすべきだとも思っています。
というわけで、なんか節目らしいし今日は今考えていることの一端を書こうと思います。
表題の件
「自分が何を面白いとおもっているか」を理解したい
こんな状況ですが、テレビやスマホやPCを通じ、ものがたりコンテンツには最低限ふれていっています。
それで思うことは、自分がものがたりに対して年々狭量になっている、ということです。
このこと自体は、ある意味で不可避では、と思っています。
ものをつくる思考回路とものを見るときの思考回路はある程度共通だと思っています。
ものをつくる側に立つとどうしてもその思考回路が、よく言えば洗練されていく(悪く言えば単純化・退化していく)ものだと思います。
「芸風が確立する」「感性が研ぎ澄まされていく」のとトレードオフで、他人のものづくりに対してもどんどん自分の価値観に引っ張られ視野狭窄になっていくのは避けられないような気がします。
(だからこそ、キャリアが長くなっても純粋に人のつくったものを楽しめるのは強力な才能であり有利だと思ってもいます)
そうやって出力された感想や評論や批評は一般性をもたないし、無意味に人様の感性と衝突してつまらなさを生むだけなので、あんまり表に出すべきものじゃないな、とも思っています。
が、「自分がなにを面白いと思っているか」を文章化するこころみは、自分がどういうものづくりをしており、どこに向かおうとしているかを理解するのに役立つのでは、とも思いつきました。
それは、今後自分がなにを目指し、どんな仕事や訓練を受けていくべきか、を知ることに繋がるかもしれません。
ついでに、自分がnoteで今後書いていきたい記事の方向性作成にも関わるかも。
というわけで、ざっと書いてみることにしました。
それにあたり、具体的な作品名は出さない方針でいきます。
どんなに正しかろうと、少しでもマイナスな評価みたら作り手側にはダメージがいきます。実感してます。
加えて全作り手はエゴサしてると思っているので、ネットにテキストのせる以上作り手に届くと思うべきです。
自分がしてほしいことをしよう。黄金の精神。
なので、名前を伏せて作品に言及しているケースにおいては特定とかは避けてほしいです。
あと「それならこの作品がいいかも」的なオススメをたまにX(Twitter)やご感想箱を通していただくのですが、読むものは自分で見つけて選びたい性分なので、身内以外からのおススメには対応しきれないことが多いです。ご了承ください。
どうかどうか。
自己観察:どんな思考をしているか
ものがたりを見ている間、自分は最大限「ものがたりが提供しようとしている体験を理解しよう」としています。
「ものがたりが提供しようとしている体験に感覚をゆだねよう」とは正直、あまりしていないかも。
つまるところ、自分は「共感されるものがたり」より「理解されるものがたり」を志していると思う。
そのうえで心(感覚や感情)を持っていかれることがあり、そういう作品に対して「すごい」という感情を持ちがち。
「ふっ、このおれを感動させるとは」みたいなこと? 書いてみるとすごく恥ずかしいし嫌なやつだなあ。
ものがたりを見終わったあと、自分は「ここはもっとこうできた・こうすべきだった」みたいな思考になりがちです。
そしてここのほうが多弁になりがち。全然よくない。
隙のない作劇なんて不可能だと思う。ひとを面白がらせようとしてものづくりするときは理屈回路じゃなくおもしろ回路を接続してるはずだから。
でも自分はたぶん「隙のない作品」を作りたがっている。
その理由は、たぶん「隙をつかれて批判されること」を恐れているから。「ものがたりという嘘」を暴かれることが恐ろしいのでアリバイ工作を進めたいと思っている。
「完成された嘘」はある意味で美しいけどただちに「おもしろい」とは限らないぞ! しっかりしろ!!
「見ている間の思考」と「見終わった後の思考」を書き比べると、自分がいま重視したいのは前者、「見ている間の思考」です。
後からゴチャゴチャ細かいこと考えるのは、客観的にはこまかい技術論でしかない。
一方で、「ものがたりに触れている間の体験」、とりわけ「理屈抜きで心をもっていかれる体験」は、広く多くのユーザさんにとって最重要な価値だと思われるためです。
自分は何に心を持っていかれるのか
さっき「理屈抜きで」と書いておきながら理屈を考えます。おれはそういうやつなんだ。ころしてくれ。
【おれの心が動く条件】
ものがたり世界が、
合理的に運営されていること
合理的に課題をつきつけてくること
主人公が、
合理的に活動していること
課題に対し合理的な回答をすること
全部に「合理的」と書いていて本当にムカついています。
いつのまにロジカルキャラになったんだ。最近サイコパスだと言われることも増えたぞ。こんなに頭悪いのに。
ただ、心はある程度理屈に従って動くはずです。でないと心理学なんて成り立たない。心理学勉強してないけど。もうだめだ。いや立て逃げるな。
がんばって内省を続けます。
合理とは
正確には、読み手(この場合はamphibian自身)が、「世界(人間)ってそうやって回ってるもんだろ」「世界(人間)ってそうはならんやろ」と思うかどうかです。
めちゃくちゃ主観的なものです。
でもまだ一般的な価値観と共有してる部分もある。はずだ。
【amphibianが思う合理】
友情、愛情、親子の親愛、地域の絆といった「関係性」が、無条件に最高! とならない。
その強弱・良し悪しは人によるし、良し悪しともに「強いそれ」が成立するにはそれなりの前提が必要。
こういった人間関係そのものの価値もさほど重く見ていない。それだけしかない親子愛モノ・恋愛モノとかにあまり興味がない。
大事なのは人間関係が生み出すドラマだと思っている。
世界は「自然現象や事故など、意志のない事象」と「多数の人間の意志に基づく無数の事件」によって複雑に成り立っていて、その状況を正確に読み解くことが面白いと思っている。
運命論や「全ての人には役割がある」といった言い分を前提にされてるときつい。世界そのものに意志はないと思っている。
「そういう神が創造した、神の目的に従って運営される世界だ」と作中で明確に定義してくれれば、それはそれで大丈夫。
人間の意志には濃淡があり、またしばしば合理的でないと思っている。
「なんとなくこれを選んでしまった」「なんとなく気分がいい・悪い」みたいな雑なキャラクターの挙動はリアルなものに思えて許容できる。
ただしそれが「気の迷いでなされたものだ」と明示される必要がある。
一方で最重要な選択や行動はキャラクターの運用方針に従った合理的なものである必要がある。
「非合理的に起こされた事象」と「合理的に起こされた事象」を厳密に区分けすべき。そして本筋は後者をメインに扱うべき。
その上で「世界の本質※」を見極めたいと思っている。
それこそがこの「合理の読み解き」の試みそのもの。
「世界の本質」がきちんと決まっていて、それに従って話が書かれていることが分かるときもちいい。
※「世界の本質」は「真理」とか「核」とかいった言葉でこれまでも書いたかもしれないし今後も書きそうだけど今回はテーマがぶれるので詳細は省きます。
なんとなくこんなかんじです。
箇条書きにしたけど網羅できてるかは自信がないし、具体的でもなくて分かりにくい気がします。
例を出して考えてみます。
例1「恋愛もの」
自分がこれまで書いてきたものがたりにはだいたい恋愛要素があります。
だいたい主人公(男女ともに)に対してヒロインがある程度の好意をもった状態で話が始まります。これはたぶん「他人→恋人といった関係性の変化」そのものに興味がなく、「成立した関係性で何を書くか」に興味があったから、だと思います。
かつ、好意のある相手との敵対関係を描きがちです。これは敵対関係から生まれるドラマを面白いと思っているからでしょう。
文芸サークル所属時代、大学1年生の女の子が下宿にゴキブリが出たという理由でなんとなく隣人とセックスしてしまい色々後悔とかを経てなしくずしに恋人になる、というラブコメを書きました。自分的には二次元的なキャラクター描写でそういう生々しい人間の挙動を描くのが楽しかったのですが、「生々しいこと」自体が仲間内でけっこうよくない評価だった気がします。
今思えば「なんとなく」の行動はドラマにならないので分が悪かったなと思いますが、「しっかりした根拠に基づいた恋愛挙動」の目指すところは結局「関係性の変化」なので、やっぱそんなに興味ないかなという気がします。たぶん今後も恋人と殺しあうような話ばっか書くことでしょう。
あるラブコメ作品をずっと読んでいます。
絵もキャラもかわいいし、キャラクターの掘り下げや動き方がしっかりしているから惹かれているのだと思います。が、その作品の主題はあきらかに「2人の関係性の変遷を通してキャラクターの魅力を描くこと」であり、そこは自分には明確に合わないと感じてもいます。
その作品では、主人公とヒロインが長いこと友人以上恋人未満の関係性を続けており、周囲のキャラクターたちはみんなそれを興味津々で(というより積極的に「くっつけたい」と思って)見守っており、時にやきもきして色々助言をくれたり世話を焼いたりしてくれます。
このことが自分的にはひっかかっています。
人間そんなに他人の恋愛事情に興味ないだろ。野次馬や酒の肴ならまだしも、他人の関係性が成立することにガチで欲望を満たされるのでいっぱい投資する、みたいな気持ちが分からない。合理的じゃない。せめて利己的な動機でもあれば納得できるのに。
……とか感じているわけです。あくまで主観の話です。
例2「バトルもの」
自分がいちばん最初に書いたのはどうしようもないエロSSでしたが、初めてまともに描いた長編はロボット戦争SFでした。
中学生の時分の話です。
当時は「テーマを設定してものがたること」を明確に軽視していて、「しゃらくさいテーマなどなくとも、自分がおもしろいと思うことを書けばいいだろう」と思っていました。
しかし書いているうち、主人公があえて命の危険を冒して戦う理由や、新米戦士にすぎない主人公が大量の敵をばったばった打ち倒せる理由がなく、それにより話の説得力がないような気がして、悩むようになりました。
(単に超天才だとかやってればまだよかったのですが、下手に戦場の片隅で活躍する地味な傭兵モノみたいな建付けで長文書いてしまったため、大きな変更を避けて小手先で逃れようとしたのです。あと「天才」の具体的な書き方が当時は分からなかった)
それで結局どうしたかというと、主人公のメカニックの女の子が優秀で、かつそいつと恋人になったことでそいつを守らなければならない→その一念で強くなる、みたいな論理展開を行いました。
このことが今、ものすごくトラウマというか自己嫌悪になっています。
「守る」ことが「強さ」に繋がる局面は現実でも多々あるとは思います。
しかし一方で、「守る」ことは戦争に負けて平和国家を標榜した日本の戦後エンタメで都合よく持ち出された価値観でしかない、とも思っています。
日本人は「攻める」ことや「滅ぼす」ことを楽しんだり喜んだりしてはならないと感じているし、作り手側もその需要に応じて「守る」話をたくさん供給してきたのではないでしょうか。
しかしそのために「守る」価値観が思考停止的に用いられすぎ、陳腐化してしまっていないか……と感じます。
自分が「守るでOK」と思ってしまったことは、それまでに摂取した「守るバトル」の価値観に盲目的に従った結果です。
しかし、そこに合理はありませんでした。
守れば強くなる「ことはある」かもしれないが「無敵」ではないはず。
でなければこの世で侵略戦争など起き得ないはず。
精神論を持ち出すにしろ、「守る」の一念で無敵になるような世界観は浅薄すぎる。説得力に欠ける。
加えていえば「女の子を守ることで男の子が強くなる」みたいな世界観も、当時の自らの薄っぺらな男女観から生まれたもので、未だにとても恥ずかしいのです。
その羞恥をもってすれば、いまだ多く存在する「守る」価値観で書かれたバトル作品は自分にとって苦味があります。
またこの経験から「戦う理由」に関して特に厳しく考えるようになっています。
いまの自分が納得できるラインは以下のようなものです:
そもそも「戦う」ことは極めて危険で異常な行為だという前提があること。あるいは「この作品において戦いは危険で異常ではない」と説得力ある前提が明記されていること。
人間は「戦う」状況に適応できるが、それに際して脳を一種異常な状態に切り替えていると思うので、「切り替える」に足る重要なエピソードが描かれていること。
「戦い」を継続するための強力な動機が示されていること。
「守る」でもいいが、守る対象と、守るという行動に至る動機がエピソードを通して明確に語られること。
「国のために戦うのは当然」「親や子のために戦うのは当然」は自分としては合いづらい。
戦いにおいて生き残ってきた合理的理由が明示されること。あるいは「合理的な理由はなく偶然の生存の結果だ」と明示されること。
それこそ「天才だから」「技術的にめちゃ優位だから」でもいい。その描写・説明の合理性と解像度による。
こういったことを説明的に全部行っている作品は少ないと思いますが、普段の活躍にくわえて「敵役にやられるときの描写」や「内省し成長するときの描写」などを通してきちんと描いている作品はあります。すごく好き。
一方で、「家族愛」「恋愛」「守る」などを無条件で前提としている作品もあれば、尺対応や描写軽量化のためあえて前提としていると思しき作品も見受けられます。
それを目にするにつけ、「売れるためにはこっち側が正しいのかなあ」などと思い悩んでいます。
かといって、悪がふつうにまかり通るピカレスクや胸糞話が好きなわけでもないのです。悪が勝つこともあるのは真理だけど、それをあえて見たいわけじゃない。悪に勝ちうる新しい論理・合理が見たいんだ。という思いがあります。
合理と感情の関係性
ここまでの話によれば、「合理」が「おれの心を動かす」ように帰結しそうですが、冷静に考えるとそんなことはない気がします。
結局のところ、心を動かすのはキャラの熱い独白や感情表現、ぶつかり合いな気もします。
ただ、合理性のない物語に熱いセリフが乗ったところで気持ちは全然乗らないのは確かです。
心が離れてしまうからです。
現状の考えでは、「合理」は舗装であり助走です。
それは感情が突っ走るために邪魔なものを排除し、きたるべきジャンプの瞬間のために感情を加速させるホップ・ステップです。
「この方向で気持ちをゆだねていいよね!? いいんだよね!? うおおお!」と持っていくための手続きなのです。
それだけでは離陸はできない。クライマックスでは「感情」の爆発力が必要です。でも「感情」だけではだめで、「合理」も絶対に必要なはずです。
で、amphibianは「感情」がわりとヘタクソで、ゆえに「合理」のほうを重視しがちだと。
やった! この記事の有用な着地点が見えてきたぞ!
まとめ
今回の内省により、自分が「合理」に目を奪われがちなのは自分の弱点の裏返しだということが分かった気がします。
それだけだときっとダメだ。
「感情」を、パッションを描けないと大気圏は突破できないぞ。
どうすればいいんだ。
……
どうしようもなくないか?
「感性を鍛える」とか、育成SLGなら「作品鑑賞」とかのコマンドで成し得ますが、そんな簡単なことでしょうか?
「合理」を指向してると「感情」は如実に失われていく気がします。
このままだといずれ論文みたいなシナリオしか書けなくなるのではないか。
にわかに怖くなってきました。
しかし震えていても解決にはならない
とりあえず、今後は「感情」にも気を付けて作品鑑賞をしてみようと思います。
でも別にこれまでも軽視してたわけじゃないし、「気を付ける」って自分にとっては要するに「理解しようとする」ことなので「合理」に属する行動じゃないかって気もします。
うまくいくのか?
ひとつ希望たりうるのは、自分が順調に老いていることです。
ふつうに昔より涙もろくなっている気がします。
感性とか意識とかと同時に、一般性のある感情励起の試みに対する防御力も鈍っており、これはある意味で感受性が上がっていることではないでしょうか?
これを利用して幅広い感情重視コンテンツを受容して何か新しいものを掴んでいくことはできるかも。
老いすら利用して生き残る。
いいな。かっこいい。これでいきたいです。
いかがだったでしょうか。
「老いを受容する」論理展開は超高齢化社会を見据えて需要が見込めるものではないかと思っています。
こんな屁理屈ばっか考えて書いてるからシナリオが遅れるんだ。
くそったれ。
それでも死にたくはないです。
記事を楽んでいただけると寿命が延びます。
どうかどうか。
みなさんもよい生き残りを。