「あいつのせい…」「わたしのせい…」という思考法だけじゃない、『中動態』という思考法…
特別な支援を要する児童がいる学級で注意が必要なのは、その特別な支援を必要とする児童以外の子どもたちへの対応である。
一人の特別支援の児童がいるクラスが、その他の子への対応のミスで崩壊していくという話はよく聞く。人一人ができることは上限があり、時間も資源も限られた中で全てのことに配慮をすることは不可能である。学級をお持ちの先生なら、思い当たる節があるのではないだろうか。
さらに、児童指導、保護者対応の時間が増えれば、必然的に学級事務、学年事務、校務分掌に割く時間は少なくなる。結果、抜けや漏れが起こり、事後対応に更なる時間を割くこととなる…という悪循環に陥る。
例えば学級事務での不備で、卒業後の子どもたちの家を一軒一軒回り謝罪をするという必要以上の仕事をすることとなった先生がいたという話を聞いた。この状況は、その先生が「能動的」に招いた状況であると断定された。
「やると“わかって”いながら“やらなかった”。よって、能動的に引き起こされたミス。」となる。果たしてそうだろうか、と思う。
他にも例がある。上の例はベテランの先生であったが、臨時採用の先生でも報告・対応の遅れから、組織全体で対応しなければならない事案になり、その臨時採用の先生は「“わかって”いながら、報告を“しなかった”。よって、能動的に引き起こされたミス。」となる。この例においても果たしてそうだろうか、と思う。
では、『受動的』に引き起こされたミスなのか?これも違う。「わかっていた」ことであるので、受動的ではありえない。「わかっていながら、やらなかった(または、やった)」のである。
ここで、國分功一郎氏の『中動態』の議論を用いたい。彼は、「能動」でも「受動」でもない、「中動」という状態が中世まで存在したという。簡単にいうと、「わかっていながら、~してしまう」または「わかっていながら、~できない」状態である。
我々も、身体に悪いと分かっていながら食べ過ぎてしまったり、飲みすぎてしまったりする。薬物中毒者やアルコール依存症の人は、わかっていながら薬物を継続してしまうし、アルコールを飲んでしまう。「自分でも駄目だと分かっている。でもやめられない。」という状態である。
彼は、カツアゲの場面を例に出す。カツアゲでお金を要求され、財布からお金を出し、相手に渡したとき、その渡した行為は能動的なのだろうか。受動的なのだろうか。彼らは、意思が弱いのだろうか。強い意志があればやめられたり、金銭を渡さなかったりするのだろうか。
そもそも、なぜ能動、受動を分ける必要があるのかという疑問に立ち返りたい。それは、意思と責任を結び付けるためである。そうしなければ責任の所在があいまいになるため、「ミス」の原因の所在を、「本人」(=能動)か「他人」(=受動)かに分ける必要があるのだ。
しかし実際には、本人の「意思」というものは我々の思っている以上に脆弱で、簡単に行為と責任を結び付けることは危険を伴うというのだ。 (参考:中動態の図解 ※問題があれば削除します)
何かトラブルがあったとき、原因の追究は必要だが、責任はだれにあるという議論、犯人探しになる状況は望ましい状況ではない。逆に責任の所在を曖昧にさせることもあるべき姿ではない。
「意思」というものは、私たちが考えている以上に簡単には「責任」と結びつけることが難しいこと、つまり「中動態」という状態があることを知ったうえで、慎重に出来事を分析していく過程こそ、トラブルへの対応として求められるのではないかと思う。
おそらく、この「中動態」を十分に理解できれば、学級経営においてこの考え方をもとに子どもたちのトラブル対応に当たった時、そうせざるを得なかった状況への理解を今まで以上に示すことができるようになるのではないだろうか。
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