モノや情報の数や新しさばかり追っかけていないか
この土日は陽明学から学ぶ勉強会「えびす大学」の世話人やってた。土曜はZOOMで、日曜はリアルで。参加者の顔ぶれも取り上げる題材も違うのに、やっぱり同じテーマで学んでるなあという実感。
えびす大学では、参加者各自の課題や関心事を確かめたあと、「伝習録」という書物の一節を取り上げ書き下し文をみんなで音読、その一節がどのように伝わったか、どのように受け取ったかを「超訳」という形でアウトプットし全員で共有する。
伝習録からも他の参加者の発言からも学べるようになってる。
伝習録には「博学」を目指すことに対する叱責のような文章が何度も出てくる。ガリ勉は結構なことだけど、それが何になるのか考えてるのか? って感じ。
俺は刃物の扱い方でイメージしてる。切れ味鋭い包丁を手に入れた。わーすごいね、ってなるかも。特に包丁コレクターにとっては。ただ、人生の目的を考えたとき、どのような包丁を手に入れたかよりも手に入れた包丁を何に使うかが肝心なのではないか、と。
この包丁でおいしい刺身をこしらえて大好きなあの人を喜ばせたい。この包丁であいつの脇腹スーッと切り裂いてこの世から消してしまいたい。
一生懸命勉強していろんな知識を身につけるのは何のため? 検索上手になってGoogle使いこなせるのは何のため?
結局は何のために生命を使っているのかという問いであるし、問いに対する答えは本屋やネットを探すんじゃなくて自分で選んで決めなきゃなんないという真理である。
探すんじゃなくて決めるんだ。わかるよね?
伝習録は現代語訳で読むと案外読みやすい。意味わかんなくてもいいから、おじいちゃんが縁側で聞かせてくれる昔話を楽しむ感じで親しんでほしいな。
世界のゴキゲンが増えるといいなって考えたりしゃべったり書いたりしてます。ありがとうございます。