幸福日和 #092「世界をひろげて」
中国の深センで、
海を眺めながら物思いにふけっていた時がありました。
あの時も、
こうして中国の広大な大陸から海を眺めていたんです。
しばらく海を眺めていたら、
鳥カゴを持ったおじいさんがやってきて、
その籠から小鳥を、
空に放っていたことを思い出しました。
自分はもうあとどれくらいで、
死ぬかもわからない。
おじいさんはそんなことを言いながら、
長年育ててきたその鳥を、遥か大空に放ってあげた。
あの時の光景は、今でも心に焼きついています。
籠の中で生まれた鳥は、
その狭い鳥籠の中が、自分の世界だとおもうのだそう。
そこが世界の全てではないのだということを
自分が死ぬ前に、教えてあげないといけない。
だから今のうちに。
自分が生きているうちに。
大空へ放ってあげなければならなかったのだと。
今、あの時のおじいさんが生きているのか、
あの小鳥がその後どうなったのかもわかりません。
あの時のことを思い出しながら、
これは、人も同じではないだろうか。
ふとそんなことを考えていました。
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世界はこんなにも広いのに、
もしかしたら自分は、
一つの小さな檻の中にいるだけなのではないか。
そう感じたことが幾度もあります。
一番最初は、大学進学の時。
田舎を出て都会で生活をするようになった時に、
他の場所で生まれ育ってきた同世代の考え方や
生き方に触れて驚いた。
ご飯を食べる時の作法も、話す言葉遣いも、
それぞれに歩んできた世界があったのだと
しみじみと感じた。
世界は広い。
そして個人の中にそれぞれの世界がある。
インターネットもない時代、
そんな無限の世界の広がりを感じた10代でした。
また、会社員から経営者になった時は、
お金の世界との関わり方がまるで変わりました。
信用のあり方、税金との向き合い方、社会のバックアップ。
そうしたことが、「雇う」と「雇われる」の間に
明確な境界線で区切られているんですね。
会社員という境界を跨いでみて、
いかに自分がその境界の内側に安全に守られてきたたかを
感じたものです。
また、働くことを辞めて日本を離れ、
しばらく世界を放浪していた時もそう、
まさに言葉の通りに、様々な国の文化を肌で感じ、
自分の世界が広がった。
経済発展のめざましい明るい日常に触れることもあれば、
発展途上国で、物乞いをしてくる少年や
ハスの花を片手に、
一輪だけでも買ってくれと懇願するおばあさんにも出会った。
そうした状況に触れて、
もしかしたら自分はまだ、
世界のどこにも足を踏み入れていないのではないか、
そんなことすら考えました。
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本当はこの世界に境界なんて何もないのに、
自分の意識が、勝手に自分だけの世界を作り上げている。
この意識によって、境界線が引かれ
堅牢な塀が築き上げられていく。
時に、単純単調な日常を過ごしてしまっていることがあります。
もちろん平穏なことはありがたいことだけれど、
その慣れに甘えてしまい、
自分の世界を小さくしていることもあります。
なぜ、自分はこの場所にいるのだろうか。
なぜ、それを学んでいるのだろう。
なぜ、その仕事をしているのだろうか。
毎日同じことばかりを繰り返してはいないだろうか、
「変化のない循環は、
時に自分の世界を狭めていくだけだ」
「だからこそ、時にはその境界を
越えていかなきゃいけない」
これは、鳥を放ったおじいさんから
教えていただいたことでもあります。
今まで関心もなかった領域に触れてみる。
苦手だった人たちと、向き合ってみる。
いつもとは違う方向へ歩んでみる。
なかなか踏み出せなかったその一歩が、
自分の世界を広げるための
大切な一歩へとなってゆく。
いつまでも、鳥かごの中の
鳥になってはいないだろうか。
時にそうして、
自分を省みることも必要なのだと思うんです。