幸福日和 #086「命のしずく」
この孤島にいると、
時々時間という概念がわからなくなることがあります。
今のようで過去でもある、
過去のようで未来でもある。
若い時は空気のように軽いものとして
その時間をうけとめていましたが、
30歳ごろからか、その時間がズシリと重い存在にもなってきた。
時間感覚のない孤島生活の中で、
僕は時々「砂時計」を持ち出して眺めるんです。
スイスで出会った
ある人の教えを思い出すために。
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スイスといえば時計の国。
多くの職人さんによって数々の時計が
この国から世界中に広がっていきました。
そんなスイスを訪れた折、
ある古時計屋さんを訪ねたことがあるんです。
店内には所狭しと、数々の時計が並べてあって、
いつの時代のものなのかも分からないほど。
そこには、時代を越えて伝え続けられていた、
数々の時計がありました。
中世ヨーロッパに作られたと思われる、
純金でつくられた懐中時計もあれば、
産業革命後に作られたであろう、
堅牢なデザインの大きなものまで。
そんな中で、
目に留まった時計があったんです。
それは、お店の窓辺に並べられた
いくつもの「砂時計」。
浜辺の砂でつくられた砂時計もあれば、
なにかの骨を砕いたかのようなものもある。
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「時間はね、命の滴り(したたり)なんだよ」
薄暗い店の奥から、そう呟きながら出てきたのは、
店主と思われる老人でした。
何歳かもわからないほどに、
時間の感覚も忘れさせるような不思議な佇まい。
その店主が言うには、
1日24時間の時間とは、
人間が作った一つの概念にすぎないらしい。
また、時計は丸い盤の上をぐるぐると針が走っているけれど、
これは人間が都合のいいようにつくった時間の形にすぎないのだと。
「時計がこんな形をしているからいけないんだ、
だから、いつまでも時間があると勘違いするんだよ」
もしかしたら、
時の為政者や富めるものは、
違う形で時間をはかっているのかもしれない。
老店主は微笑を浮かべながら、
そんなことをほのめかしたのを
今でも僕の記憶の中に印象深く刻まれています。
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店主が言うには
本来、時間とは砂時計のようなものなのだという。
そのように時間を眺めよと。
重力によって、上から下に落ちていくその砂の姿は、
「限られた命」が土に還ってゆく過程。
それは命が滴る姿なのだと。
時間が全て大地に落ちきった時、
やがて生身の自分も世界の上で朽ちてゆく。
初めはゆっくりと落ちていくけれど、
残りが少なくなるほどにその速度は早くなる。
なるほど、、、、
日々感じている時間の感覚と似ているなと
店主の話を聞いて妙に納得したんです。
時間とは、時計の針のように
いつまでもぐるぐると回るものではない。
同じ時間は二度と戻らない。
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スイスでその老人に出会って以来、
僕の時間に対する向き合い方は、
大きく変わったんです。
自分が今まで時間を無駄にしていたと思うのなら、
今からそれを大切にしていけばいいとも思いましたし、
一方で、他人の時間をも奪ってはいないだろうかと
内省するようにもなった気がします。
例えば、この週末。
みなさんは、相手の時間を奪うようなことを
していませんか?
なんとなく誘う。
なんとなく電話をかける。
週末に仕事や用事を押し付ける。
互いに有意義な時間を過ごすのであれば、
共に命を確かめあう尊いことだけれど、
でも、一方的に他人の時間を奪うことは、
その人の命を奪うことでもある。
その時間があれば、
相手は大切な家族や恋人との時間を
過ごすことができたかもしれません。
もしかしたら、周囲に見えないところで
その時間を使いながら、新しい価値を生み出している
人もいるのかもしれない。
相手の時間を通じて、
その命を奪ってはいけない。
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時間をきちんと守ったり、
相手のスケジュールを配慮する。
そうして、丁寧に時間と向き合っている人を見かけると、
なぜだか、自分も大切な時間を拾った感覚にもなります。
そんな時は、なんともいえない
暖かい気持ちになる。
この限りある時間を、
自分は大切に使えているだろうか。
相手の時間を奪ってはいないだろうか。
時には、
普段目にする時計を意識せずに、
違う計りや概念で時間を感じてみる。
天から地へ、
少しずつ流れゆく砂時計を目の前にして、
時間の重さをあらためて実感しています。
いつまでも大切にしたい習慣なんです。