【短編小説】ムードブレイカー【ショートショート】
※この作品はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
※適宜、加筆改稿を行う場合があります。
私はミサトからのアイコンタクトを確認すると、思いきりくしゃみをしたフリをしてテーブルの上に置いてあった水の入ったコップを勢いよく倒した。
狙い通り、隣のテーブルに座っているミサトの足下へこぼれた水が流れていく。ミサトの対面に座っている茶髪の20代ぐらいの男が一瞬狼狽の色を見せた後、ポケットの中からハンカチを取りだしながら立ち上がる。
たまたま近くにいたカフェの店員が慌てて駆け寄ってくる。
「すいません、大丈夫です」
ミサトはバッグの中からタオルを取り出すと、てきぱきとした動作で両足にかかった水を拭いた。
「ごめんなさい!すぐ拭きますね」
と私もバッグから取り出したタオルを片手に慌てて立ち上がる。
「あ、大丈夫です。もう濡れてないし」
「すみませ~ん」
こんな猿芝居で本当にこの男の器量がわかるのだろうかと不安になったが、後からのお礼の電話によればミサトは満足したらしかった。
「あの時、普通だったらハンカチとか渡して『次会う時返してくれればいいから』とか言うじゃないですか。でもそうじゃなくてすぐに『どっか落ち着けるとこ行く?』って聞いてきたんだから完全に一回限りのヤリ逃げ確定ですよ、完全に私と次会う気が無いじゃないですか、落ち着けるとこってさっき居たカフェは落ち着ける場所にカウントしてなかったのかよって感じでしたけど」
ミサトは私と同年代の20代前半ぐらいで、素朴な見た目かつ別段スタイルも良くないのでそんなに男ががっつくようなタイプには見えないが、しっかり揃えられたパッツンとした前髪がサブカル受けしそうな印象はあった。にしても導き出された結論が少々短絡的すぎるきらいはあるが。ヤリ逃げする男への警戒心が強すぎて、何でもないような行動や言動にも危機感を抱いてしまうのだろう。
私は「それは事前にわかって良かったですね」とあえて仰々しく言ってやる。
「ありがとうございました。あ、友達にもレンゲさんのこと教えときますね」
「ありがとうございます。メールに振込先の口座を記載しておきますのでよろしくお願いします」
私の本名は蓮華だが、幼い頃からレンゲという渾名で呼ばれていたのでその名前を仕事の際のペンネームとして使用している。
相手が不慮の事態にどう対応するか知りたい。その欲求を満たす手伝いをするのが私の仕事だ。
昨今のマッチングアプリの台頭により、依頼の数は格段に増えた。
今までに請け負った依頼の大体が「相手が完全にヤリモクなのでそれっぽい雰囲気になったら阻止して欲しい」とか「終始見下したような態度をとってくるので合法的な範囲で悲惨な目に遭わせて欲しい」とかいう類のもので、そんなの無言ブロックすればすぐに済む話だろうと思うのだが、虚勢を張った相手であればあるほど想定外の事態に直面した時に慌てふためく様が滑稽で無様に思えるらしく、その過剰な自信に由来するあたかも成功を確約されているかのようなプランを粉砕してやるのがたまらなく心地良いらしい。
そのようにして彼女たちの尊厳を回復させていく行為を繰り返していると、私のこの仕事の存在はネットの口コミなどを介して徐々に広まっていった。
端から見れば私のやっていることは、ただ発生しかけているひとつの関係を破綻へと導いているに過ぎない。
ふと、これで金銭を得ている自分は一体何なのだろうと自嘲的な気分になることもある。
もう何人目かの依頼者であるかもわからないアイにファミレスのテーブルで今回の妨害対象の写真をスマホで見せてもらった。
アイはスタイルが良く、身体の曲線がはっきりしていたのでヤリモク男性にとっては格好の餌食だろう。今回もおそらくそれっぽい雰囲気になったら小規模の事件を起こしてくれという内容の依頼に違いない。
そう思いながらスマホを覗き込む。見覚えのある顔に思わず二度見した。
「この人すごいLINEでの文章が長いんですよね~。まだ1回お茶しただけなのに重い系というか拗らせ系というか~」
「それはちょっと心配ですね」
「会った時は緊張してたのか何なのかわからないけど全然喋らなかったのに、別れた後に『めっちゃ可愛かった』とか『アイちゃんが綺麗すぎて何も考えられなくなっちゃった』とか~、言い訳なのか何なのかわからない言葉を延々と並べ立てるんです~」
こちらの歯が浮くような文言を送ってくる癖は相変わらずらしい。大学時代に実際に付き合っていたことのある身としてはよくわかる。
リョウタの褒めるべきところは顔しかないのだ。
実際に共にいる時間が長くなればなるほど、それを如実に感じるようになる。
インターネットで検索するとヒットする「デートのお作法」みたいなものに書かれているチェック項目をひとつずつ丹念にクリアしていくような、何の新奇性もなく退屈でこの上ないデート。小学校の通信簿をつける担任教師とはこんな気持ちなのだろうかとよく思った。こちら側が「大変よくできました」のハンコを押すことを強制させられているような気持ちに何度させられたかわからない。
「俺みたいな奴がレンゲちゃんと付き合えたのは奇跡だから」というのもリョウタがよく吐く常套句だった。謙譲的な姿勢をアピールすることによりこちらに自己肯定感という名の付加価値を与えてこようとする疚しい思惑がまるで隠しきれていなかった。
あえて自分の立場を下げることにより、「そんなことないよ」という言葉で上げてもらおうとする。上げてもらうことでしか自分の存在意義を確認出来ない。だから尊敬ではなく謙譲をベースとした過剰な褒め言葉を多用する。それが彼のコミュニケーション様式だった。
私の容貌はどう考えても中の中~上、だいぶ良く見積もって上の下といったところだ。間違っても手放しで褒められるような上の上の容貌もスタイルも持たない私にかける言葉にしては、彼の言葉はあまりにも誇大すぎた。
私と付き合えたのが奇跡だと本気で思っているなら奇跡のハードルが低すぎるし、実際の行動の端々から本気でそう思っていないのは伝わってきていた。私のことを絶世の美女というポジションに無理矢理設定し、その美女から求められる自分という図式を演出しないとプライドが保てないのだ。
そんな傲慢さを優しさに擬態させて、自分の中にある善良さだけを差し出しているかのように見せかける生き方は私の性格によく似ていた。
大学のゼミの活動を通してそうした共通点を見出し最初に抱いた親近感は、同族嫌悪に形を変えていくまでにそう長い時間はかからなかった。結局、最後に残ったのは彼の端正な顔面に対する率直な羨望だけだった。
「今度の週末、昭和記念公園に行った後にバーで飲むってことになってるんですけど」
アイの粘り気のある甘ったるい声で我に返る。
「なんか何考えてるかわからなくて怖いんですよね~」
「う~ん、そうですね……そうしたら、公園でベンチに座ってる時に、近くを通りがかった私が体調不良で倒れたフリをしましょう。そこで彼がどういう対応をするのかでなんとなく判断はつくでしょう」
「え~、レンゲさんがいきなり私たちの座ってるベンチの前でバタッて倒れるんですか?ウケる~」
全くウケないが、具合の悪そうな足取りでふらふら歩いてバタリと倒れ込めば何とかなるだろう。そこからどうなるかはわからないが、今までもそうやってきた。男が綿密に計画してきたプランを打ち砕くため、誰かの頭の中で計画された未来が現実通りになるという現実を否定するためにこんなことをやっているのだ。
まさか3年前に別れた女がマッチングアプリで出会った女とのデート中にえげつない体調不良者として自分の目の前で倒れ込むとは、彼は露程にも思わないだろう。
私はキャップを目深に被ってマスクをしながらベンチに座り、隣のベンチから断片的に聞こえてくる会話を聞いていた。
話の内容は他愛もなく、将来どうなりたいとか、結婚願望はあるかとか子どもは欲しいかとかそういう普遍的で手垢のつきまくったテーマだった。
リョウタの声はよく聞こえなかったが、アイの声は私に近い側に座っていたこともあり比較的聞き取ることが出来た。
「結婚はしたいかな~やっぱり。周りの話聞くと大変そうって思うこともあるけどさ、酸いも甘いも噛み分けて生きなきゃいけないのが人生なわけじゃん。お互い一緒にいる時間が長いとどうしても嫌な部分見えてくるっていうけど、それごと含めて愛する覚悟を決めるっていうのが素敵じゃん?」
どうしてその「酸い」の部分、徐々に明らかになってくる嫌な部分を自分の忍耐力の管轄内に収まるものであるに違いないと平気で思い込めるのだろう。
見当違いな予測はいずれ不満を生み、それが肥大化して関係の歪みは修復不可能なものになっていく。今の世の中3組に1組は離婚するというけれど、調査対象を離婚願望を抱いている人間に変えたらその数はおどろおどろしいものになるだろう。
自分が楽観的な誤算をしていたと気付いたときにはもう遅いのだ。
「バレてないとでも思った?」
その声の主がリョウタであることを認識するまでに時間がかかった。
横を見るといつの間にかアイの姿は消えていた。
「彼女は帰ったよ」
わけがわからず硬直していると、リョウタが遠慮する素振りもなく私の隣に腰を下ろしてきた。
「レンゲちゃんと会うの久しぶりだね。レンゲちゃんのことネットですごい噂になってるよ」
私は必死に頭を働かせた。
「なんで?」
どの疑問に対してかの「なんで?」なのか自分でもわからなかった。
「俺たちの目の前で倒れるつもりだったんでしょ?そりゃ確かにウケるよ」
「どういうこと?なんで知ってるの?」
「俺あれからレンゲちゃんの活動ずっと追ってるもん」
3年前と全く変わらない淡泊な口調で、何事でもないかのようにそんな台詞を言ってくることに薄ら寒さを覚えた。
「私のことネトストか何かしてたってこと?」
「そんな人聞きの悪いことじゃないよ。ただ相変わらず面白いコトするなって観察してただけ。でも今回のは流石になんか甘いんじゃない?本当に悪い人間は優しい人間のフリをするって知らない?仮に俺が倒れたレンゲちゃんを介抱して、アイに『この人は良い人なんだな』って思わせた時点でこっちの勝ちだよ?一旦油断させてその隙に付け入るのがやり口なんだから」
「どういうこと?どこまで知ってるの?あの女は知り合いだったってこと?」
「関係を発展させたいのに邪魔されるのは困るって層が一定数いる、ってこと。アイはそっち側の人間だった。だから彼女の計画通り協力した。レンゲちゃんに忠告する機会を得るためにもね」
「忠告?」
「レンゲちゃんがやっていることは確かに誰かの願望を叶えているかもしれないけど、叶えた望みと同じ数だけの恨みを買う。自ら危険を呼び寄せているようなものだよ」
「……そんなことはこの仕事を始めた時からわかってるよ。リスクを冒さない人生に意味はない」
「久しぶりに聞いたよそれ。懐かしいな」
リョウタは無感情かつ全然懐かしくなさそうに言った。
息を大きく吸って呼吸を整える。もう遅いかもしれないが、なるべく動揺を悟られたくなかった。
「じゃあ何、私のやっていることに反感を覚える層がいて、今回は逆に私の方に一泡吹かせようっていう魂胆のもとあなた達が仕組んだことで、逆ドッキリ大成功ってわけ?」
「レンゲちゃん、あの頭悪そうな女がそんな器用なこと出来たの?っていう感情が顔に出すぎ。とにかくもうそういう活動は控えた方がいいよ。じゃないと今度はレンゲちゃんが危ない目に遭いかねない」
「……ご忠告ありがとう。でも私のやっていることにはちゃんと私が責任を持ってる。私に何が起ころうと私のせいなんだから、リョウタが気にすることじゃない。そもそも私たちの関係性は終わってるんだし」
急に面倒臭さが押し寄せてきていた。もう何かを考えるのも、リョウタと会話をするのも面倒臭い。結局想定外の事態を一番疎んじているのは私なんだということを認めることさえ面倒臭かった。
とりあえず帰って頭を整理しよう、とベンチから腰を上げかけたと同時に、もうこれ以上聞きたくないリョウタの声が聞こえる。
「ずっと思ってて言えなかったことがあってさぁ、レンゲちゃんって異質性を優位性と錯覚してる節があるんだよね。もうそういうの卒業した方が良いんじゃない?そのままだとどんどん生きにくくなっていくよ。まあ俺も昔そういうとこあったからわかるけどさ」
横を向くとリョウタが背中を向けて去って行くところだった。「じゃあね」と言われた気がしたが、風の音に紛れてか私の耳の奥までは届かなかった。
私はもう一度ベンチに座り込んで呆然とした。脳が思考することを拒絶していた。
弱い風に吹かれて私の前髪が揺れる。
久しぶりに見たリョウタの目は、3年前と同じくやっぱりどこか生気を失っているように見えた。