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満月のデトックス1 〜「肉を食べないこと」を選び続けている理由を考えながら


こんばんわ、Kaloです。

先日の7日、満月の夜にインスタで予告なしライブをしました。
(聴きに来ていただいた方々、ありがとうございました。)

前半、これまでになく音がバラバラで(苦笑)、自分でも、なんだこれ?
って思いながら奏でていて、やっと後半30分でクリスタルボウル本来の音が響きはじめた感じで、私自身がこのクリスタルボウルで、どうやらデトックスが起きたような気がしました。

と、いうのも翌日の8日には、とにかく眠くて。何もできない。
気分が落ち込んでいた訳ではないけれど、朝の瞑想さえやる気がしない。
ベッドに入って海外ドラマを見ながらうとうとしたりして、久しぶりに1日なんとなくダラダラっとして過ごしていました。

そして9日の昨日、
意識の深いところに在って、昨年からずっとその存在についてのお知らせが来ていたけれど、なかなか向き合えなかったモノと、やっと対面ができて。それが外れたのでした。

今日はそのお話を。(長くなりそうなので2回に分けました)


昨日の朝の「お知らせ」


きっかけは、昨日の朝にキタノ カラスさんのこの記事を読んでからでした。

畜産について、実際の現場を体験して、感じて、考えて。
そうして書かれているキタノ カラスさんの言葉。

私の中にめちゃめちゃ、ズドーーーーン。と来たのです。

具体的に書くのは控えますが、“日本では”ふつうと感じる飼育方法だと思います。もちろん虐待が行われているわけでもない。でも、私は「かわいそう」と思ってしまった。
かわいそうって自分の中ではすごく嫌な言葉で、使った記憶はほとんどないのですが、この時はすんなり浮かんできました。

たぶん、理想と現実の乖離が大きすぎたからだと思うんです。大学では動物福祉の観点からもいろいろ学びましたが、私はそこを飛び越えて“我が家のペット的な感覚“で考えてしまう。

たとえば、牛であれば広々とした牧草地で放牧するというのは最低条件で、食べ物は無農薬・無化学肥料で育てた牧草、さらに寿命を全うしてもらいたいと考えてしまうわけです。

実際、こういうふうに育てていらっしゃる牧場もあるんですよ(もしくは、これに近いカタチで)。でも、自分には到底できないような大変なことで。そんな理想を勝手に思い描き、無意識だとしてもそれと比べてかわいそうと思ってしまうのは…違いますよね。いやらしいなと自覚しているのですが、なかなか拭い去ることもできなくて。

産業動物に限らず、動物のことに関してはすごく高い理想を描いてしまうんです。そして、自分にできることは何だろうと考えて、でも、見つからなくて、また考えての繰り返し。

私は、動物と向き合うことは人間と向き合うよりも難しいと感じています。生半可な気持ちでは向き合えない。一歩間違えばただのエゴ。その度合いが人間よりも大きいと思うんです。

今日も、答え探しは続きます。

もう、本当に共感して….。
私も動物と人との関係について、ずっと同じようなことを感じていました。


そして、そういえば、昨年からずっと、自分の中でひっかかっていることがあった。それは「なぜ私は肉を食べないことを選び続けているんだろう?」という自分宛の疑問。なにかが、この記事と繋がっているような気がして

それをnoteに書こう。って思いました。



肉を食べないことを選び続けている理由



私は、今は基本的にお肉は食べない。グルテンフリー、シュガーフリー、添加物フリーで、野菜と穀物中心の食生活。たまにお魚をいただいています。

小さい頃は、好き嫌いがほとんどなく、なんでも食べられる子供でした。
子供の頃に住んでいた家の近所にはお肉屋さんがあって、おやつにはそこで母にソーセージを買ってもらって食べていたし、クリスマスには大きな鶏のもも肉を頬張っていました。ハンバーグも焼き肉もすき焼きも好きだったし、本当になんでも美味しいって食べていました。


今の食生活。このグルテンフリー、シュガーフリー、添加物フリーは、大人になって単純に身体に小麦などが合わない。ということがわかってから、その物理的な理由がおもで食べないのですが、お肉については、30代から何度か試しにベジタリアン生活を期間限定でしていて、つい一昨年まではチキンをたまにいただき、昨年は外食した際に、食べることもあるという程度で、基本は食べない。多分、年に5回も食べていない感じです。

それは、「なんとなく」そうなってきた。

のですが、もちろん、ただ「なんとなく」だけではなくて、
そうなる理由は確かにいろいろとありました。

そして、肉を食べないことに対して、自分では自然にそうなった。と思っていたので、とりたてて何も考えていなかったのですが。

昨年、初対面の人と食事をする機会が多くあったりして、そのたびに私は肉を食べないことを選んでいたのですが、それは周囲には自然に受け入れてもらえていました。でもあらためて自分の中で「私はなんで肉を食べないことを選んでいるんだったっけ?」と、考える機会が何度かありました。

そしてその度に考えてみたけれど、そうなった経緯までの理由が、いろいろありすぎて、モヤモヤしたまま。で、どうもその先まで突っ込んでいけないまま、でした。

なので、とりあえず振り返りから。
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何度か試しにベジタリアン生活をするちょっと前から、実は最初に牛肉をまったく食べなくなったのですが、それは、もう20年以上前で、そのきっかけは、この1枚の写真からでした。

2001年の9月に、仲のいいカメラマンが、バリ島に作品撮りをしに行くというので、一緒について行った時。
バリ島の民家のお庭に牛や鶏たちがいて、とてもかわいい牛たちだなぁ。と、私は記念に写真を撮りました。

当時はデジカメ、フィルムです。

帰国後に現像したら、2頭いた牛のうち1頭のところに光が降りていて、
その光で牛がほとんど見えなくなっています。
こんな写真を撮ったのは初めてで、びっくりしました。
でもこの写真を見た時に、何かとても神聖なものを感じて
「牛は神様なんだなぁ。」と、なぜか、漠然と思ったのです。

ちなみに一緒に行ったカメラマンもここで撮った写真は、全部、なぜか光が発光していて全然使えなかった。と話していました。

で、なぜかそれ以来、「なんとなく」牛を食べなくなったんですね。


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その1〜2年後、昔どこかの記事でも多分書きましたが、インド大使館でヨガと呼吸法を習っていたことがあって、その時の講師の方がベジタリアンで、「動物の死体を食べる意味がわからない」など、いろいろ話を聞いていて、単純な私は感化され、当時は自分の身体を使って実験するのがマイブームだったので、さっそく1年間、肉も魚も食べない。というベジタリアン生活を試してみることにしました。
この時は「動物の死体」NG。乳製品はOK。という考えでした。

まぁ、もともとそんなにお肉が好き。という訳でもなかったので、この1年間は外食の時に気を使うくらいで、自分的には楽勝。という感じでした。
そしてこの1年間でお肉を食べない「クセ」がついたことと、呼吸法とヨガをやっていたのも相まって、精神的にも落ち着いて、内面の変化を感じたのもあって、その後もお肉をあまり欲しなくなりました。
それでも外では食べてはいましたが、この頃はもう牛肉は完全に食べなくなっていたので、焼肉屋さんだけは行きませんでした。


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その後、今から8年前に、米国のホリスティック栄養学で学んで、その授業の中で、米国のドキュメンタリー映画を観たり、食品産業の現状について学ぶ機会がありました。
その時に、工場畜産の現状、抗生物質とホルモン注射の大量投与、遺伝子組み換えの穀物飼料のことなどをはじめて知りました。

ショックでした。

たとえば、鶏たちはアウシュビッツのように部屋いっぱいに詰め込まれ、動くこともできず、日光も当てられずに育てられているストレス過多で中で殺し合いを始めたりする。
立ったまま方向転換もできないような狭い場所で育てられている牛や豚たち。大量の糞尿はそのまま垂れ流しの劣悪な環境の中、病気がうつらないように抗生物質やホルモン剤を投与され続けている状況。

家畜の食べている飼料には、家禽類の2次副産物である、皮や骨や内蔵や羽や、食用には使えない廃棄するはずのものを乾燥させて粉にして混ぜている。それはなんとペット用の餌にも使われているのです。
狂牛病(BSE)の発生はそれが元となっていると言われ、今は牛には牛の副産物は使われていないとも聞きますが、、、、。

抗生物質は輸入されていますが、そのほとんどは人間の医療目的ではなく、家畜用というデータ。日本は世界一、肉を食べている国というデータ。(ともに2015年当時です)

この時は、あまりの衝撃で、めまいと吐き気がしました。

「世界は終わってる。」っていう、怒りと憤り。 途方もない絶望感。


これを知ったあとも、しばらくは外食の場面で周囲に気を遣い、お肉を食べることがありましたが「知ってしまった」ことを無視して食べ続けることに罪悪感が生まれて、だんだんと食べることをやめていくようになりました。




核心に触れる


実は、昨年の12月に、友人に「肉を食べることについてどう思うか?」という質問をしたことがありました。

彼女はアメリカ先住民のお話をしてくれて、
食用とされている動物たちはその種族ごと、生命を捧げることを種族全体が受け入れて生まれてきている。だから「かわいそう」と思わなくて良い。
というような話を聞いたのです。

その時、私はなるほど、そうなんだろう...。とは思う。
宇宙的に観たら、すべての生命が、宇宙が、調和してしている訳で、
ものごとのひとつひとつに善悪はない。ということも理解している。
でも、それでも納得ができない。腹に落ちてこない。どうしても。

え。それって、ずいぶん人間に都合のいいように言っていないですか?


って、どうしても思っちゃう。

たくさんの動物が生命を生命として扱われていないような、虐待に近い(というか私に言わせたら完全に虐待)扱いで、食用にされたり、無為に殺されていっている現状を無視などできるはずがない。
人間はこの地球でそんなに偉い存在ですか?何様ですか?
動物のほうがずっと尊い存在じゃないですか?



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昨日、一日中パソコンの前で、この記事を書いていて、
ここまで書いては消し、書いては消しをしていて、止まっていました。

書いていて、いろんな感情が溢れてくるんですよね。

だから記事の行き先がどうしても迷子になってしまうんです。

そうだった。

こうしていろんな感情が溢れてくるから、核心にたどりつけずに、考えるのを途中でやめてしまっていた。だから抱えていたんだった。



先の先住民のお話は、実は今年に入って2月に、また別の人の口から聞く機会があって。その時にも、やっぱり同じように受け入れられないままでしたが、2度も聞くってことは、やっぱりそこに何かの鍵があったのです。

だから、きっとここで、このことについて、ちゃんと整理しろ。ということなんじゃないかな?と感じていて、何度も書き直しながら、深夜になって。

ふっと、休憩して煙草を吸いながら、うちの猫たちを見ていたら…。

ああ、そうか。
私はずっと「人間であることそのものの罪悪感」を抱えていたんだ。
と気がつきました。


(つづく)


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