「民間防衛」-そもそも「防衛」するべきものとは
この「民間防衛」を初めて読んだときは中学生の時分だったように記憶している.DSやWiiといったゲームハードを買ってもらえなかった私は小学生の頃からPC上でプレイできるフリーウェアのウォーシミュレーション,またHearts of IronやCivilizationといった大規模戦略シミュレーションにハマり,学校で行われる「平和教育」なるものにことあるごとに反発を覚える健全なミリオタ少年になってしまったのであるが,その過程の中で「民間防衛」を手に取って読んだように思われる.当時の私が「民間防衛」を読みどう感じたかは記憶の彼方に消え去り定かではないが,おそらく平和の尊さや戦争の悲惨さを題目だけ唱えるだけで平和を保てるとする「平和教育」への反発の材料にしたことは想像に難くない.
当時よりおおよそ10年の時が経った.その間に随分と安全保障に関する書籍を読んだ.高校生の頃からコミックマーケットのミリタリー島に入り浸り,出版流通に載らない中ではおそらく最もディープな情報を摂取した.大学図書館の蔵書,また教員の個人研究室からかっぱらってきた定価で一万円を超すような学術書にも多数触れた.国際情勢や安全保障に興味関心のある学友たちと随分と議論をした.古の2ch,そしてSNSの集合知にも時には助けられた.当時と今とで人間性が進化した自覚はまるでないが,知識,そして知識の運用面においては多少の進歩は見られると言ってもいいかもしれない.無論,私より遥かに詳しい人間は数多存在しているのでそのような進歩など誤差に過ぎないのであるが,しかし「平和教育」を一方的に否定するような,ある種の盲目さから脱却し,俯瞰的な視点と言えないまでも少し視界を広く取れるようになったのは確かである.
さて,そんな多少は進歩したと思い込みたい私は本当に久方ぶりにこの「民間防衛」を読んだ.「民間防衛」,特に冒頭の部分を読み直して得た感想は,我々民間が「防衛」するべき「国家」及び「価値」とは何か?という疑問である.
もちろん,この文章を書いているまさに今この時でもウクライナ国民は飛来してくる巡航ミサイル,ドローンに対処するため「民間防衛」を展開し,文字通り身命に替えてウクライナを隷属の運命から救い,また己の命,自由,尊厳を確保しているという事実を毫も忘れてはいけない.彼らに取っては,守るべき「国家」また「価値」は明白極まりないものである.
しかしながら,本邦が置かれている状況はまだ平静を保っている.安全保障環境の厳しさが叫ばれ,防衛装備及び後方支援体制の大幅拡充が実施されているとはいえ,脅威が火急に迫っているというわけではない.また先の大戦での大敗及びその後の歴史的経緯もあり,本邦における「国家」,また「基本的価値観」という概念に対し統一された国民的合意が存在しないのが実情である.もちろん,「日本国憲法」をはじめとする法律的文章に定義がなされているが,その内容を記憶し,理解している人間が果たしてどれだけいるかかなり微妙である.
そう,焼け跡からただひたすらに経済的豊かさを追い求め,史上稀に見る幸運と国民の努力によってそれを実現してしまった本邦においては「国家」,及び「国家」が実現し,確保すべき国民主権」等の「基本的価値観」を認識せずとも暮らせる社会が構築されたのだ.私たちは普段何も気にすることなく外出し,労働し,教育を受けることができる.もちろんそこにはかなり金属疲労が生じているが,多少なりとも対応する行政制度があり,そして問題意識を有していて政治的,経済的活動を行う人間がいる.ただ,これらは全て「国家」という概念,及びそれに付随する行政機構,「基本的価値観」の実現,確保を命題とする立法,司法機構が存在しないと成立し得ない.普段空気の存在を認識することはないが,もし無くなると生命の危機に瀕するのと同じように,「国家」や「基本的価値観」の存在を認識はしないが,それが無くなると今と同じような社会的生活はおおよそ維持できなくなるであろう.
「防衛」とは言っても,「何を」守るべきなのか明確にしなければ方策の取りようがない.しかしながら,空気のように大切だと知りながら,同時に空気のように曖昧模糊としている,それが「国家」及び「基本的価値観」なのである.もちろん賢明なる読者諸兄には明確に定義できる人がおられようが,私にはどうしても「空気のように大切」とされる「国家」の二面性を示す歴史的事実を思い浮かべてしまう.曰く,先の大戦で200万近くの若い命に「戦場での華々しい死」すら用意させず,食糧の当てのないまま名も知らぬジャングルに送り込み餓死させ,あるいは暗く狭い船倉に家畜のようにぎゅう詰めにさせ,訳もわからぬまま海の底に沈めさせた.今日においても「自己責任」の名の下に過酷な条件で働く労働者を切り捨てたり,あるいは保護を求める難民に対し劣悪な条件しか与えない,また他国に自国民を拉致されても取りうるべき手段がなく帰国させることができなかったりと「国家」が保障するべきだとされる国民の生活,そして生命-「基本的価値観」を蔑ろにした事例である.「国家」は確かに私たちになくてはならないものであるが,反面容易にその暴力性を発揮し私たちの生活や生命を脅かしうる.ゆえ,私にはどうしても「国家」という存在に対し一定の評価を下せないのである.
「基本的価値観」についても同様に,明治期に「freedom」や「human-rights」,「democracy」なる概念を半ば強引に導入し,60年ほどはなんとか消化しつつあったものの昭和前期に自らの手で吹っ飛ばし,そして大戦に敗北したことでいわばこれらの概念が「上から降ってきた」本邦においては,これら「自由」や「人権」という概念がどれだけ「身体性を持って」議論されているのかかなり不明確である.そもそも,「dominationからの脱却」を示す「freedom」と「自らに由る」と書く「自由」が一対の概念となっているのかどうかすらもわからない.
故に,少なくとも私の中では「防衛」するべき「国家」,「基本的価値観」を理解するに至っていないというのが率直な感想である.これからはただの推測であるが,他の人も大体同じような解像度であるし,「外敵から国を守る」と勇ましい発言を繰り返す人もいざ問われれば答えに窮するであろう.
前述したが,「防衛」にはまず「守るべき対象」を明確化することが重要である.それを共有し,心象の一部としなければどれだけ正面戦力を有していたとしても意味はないし,逆にそれを有しておけば多少の物質的劣勢は覆せる.「絶滅戦争」に直面し「大祖国戦争」を戦い抜いたソヴィエト連邦然り,ロシアの侵略を受けることで「国としての一体性」に目覚めたウクライナ然り.従って,私たちはまず自衛力を行使することで「守るべき対象」とは一体何であるのかを議論し,共通認識とせねばならない.ただし,国際情勢を鑑みるにそれに費やせる時間はそう多くはないようだ.実際に,巡航ミサイル,長距離滑空弾の保有を検討するなど今までの本邦では考えられないくらいの防衛体制の拡充が図られており,畢竟,それは「有事」が目の前に迫っていることを示す.
書評にも書いた通り,この「民間防衛」は時代的背景もあり,例えば社会民主主義者や平和主義者をソ連の手先だと言わんばかりの記述をするなどその内容はいささか古臭いものとなっている.(私は,例え意見が異なる相手であっても”この国の問題点を改善したい”という点では一致できると信じている)
ただし,「国民が守るべきスイスの価値観」,そして「そもそも国家とは何であるか」を記した本書冒頭部分は私たちが「防衛」するべき「国家」,「基本的価値観」を考える上において多大な参考となるであろう.
普段「国家の防衛」を語っている人たち,そして何を守るべきなのかわからず字面だけを捉えていた中学生の私にこの「民間防衛」を手にとって欲しい.