救世主、現れる。
僕は日本の大学に入ることを決意したわけですが、それには実は、もう一つの理由があります。それは、和也(仮名)との出会いです。
高校時代の僕といえば、「ドイツ語に自信がないし、学校も楽しくないから、早く辞めたい」とか弱音を吐いていたかと思えば、「日本の学生はみんなチャラチャラしていて、雰囲気もドイツとまるで違うし、自分には合わない」と根拠もなく決めつけたりと、今思えば、未熟であったが故、矛盾だらけでした。そんな中、南ドイツで開催された、日本人児童を対象とした催し物にヘルパーとして参加したとき、最終日に和也と知り合ったのです。1993年の夏のことです。
日本の高校を卒業した後、以前から取り組んでいた陸上の技術をドイツでさらに磨くべく、1ヶ月前に来独したばかりの彼は、催し物のことを知っている人に連れられて、南ドイツにやってきました。和也と僕は同い年。自分とは違って日本で生まれ育った同年代の日本人と知り合うのはすごく久しぶりだったので、出会った当初は緊張したのを覚えています。
和也は陸上選手であると同時に大の歴史好きでもあり、しかも達筆。自分が想像したこともないような能力の持ち主でした。性格的に裏表がまったくない上、ほどよくバカっぽかった(笑)ということもあり、すぐに意気投合しました。催し物が終わったあとも、和也はうちに泊まりにきたり、二人で貧乏旅行を楽しんだり。ちなみに、長渕剛とB’zを教えてくれたのも和也です(笑)。
それは、食事をしていたある晩のことでした。「日本語で自分の気持ちを伝えるのに自信がない」と嘆いた僕に対して、和也は不思議そうな顔で「えー、ていうか、全然違和感ないけどなぁ。」と返したのです。
その時、僕はあることに気づきました。自分が今まで日本バッシングをしていたのも、結局のところ、「自分は日本語に対する自信がないので、日本では通用しない」という劣等感からくる畏怖によるものだったのではないか、と。しかし、日本で生まれ育った和也が僕の日本語力を肯定するぐらいなのだから、自分は日本でも十分に通用するのであり、故に、日本を勝手に敵対視するのはおかしい。そこまで頭の整理がついたら、日本に対して偏見を抱いていた自分が恥ずかしくなり、「日本を自分の目で見たい」という気持ちが高まりました。
和也は結局、希望していた陸上部に入部することができず、日本へ帰国しました。僕が1995年の夏に帰国するまでの間は和也と文通していたのですが、その手紙の一つに「弘太郎にはぜひ、日本を自分の目で見てもらいたいよ!」と力強く書いてあったことが、僕が帰国を決意する決定的要因となったのです。
人との出会いが、自分の人生にどれだけ影響を与えるか、わからないものですね。わからないからこそ、これからもすべての出会いを大切にしていきたいと思います。