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で、なんで日本に帰ったの?!

ギムナジウム卒業式の翌日、僕は日本に帰国しました。翌々日から始まる帰国子女向けの予備校に通うためです。

ある時、同時期にアビトゥアを受けた日本人の友人が「なんで弘太郎は日本の大学に進もうと思ったの」と真剣に聞いてきました。お互い、ドイツにもう何年も住んでいる上、ドイツの大学に進学することを決めていた友人にとって、僕の決断は理解し難かったのでしょう。

僕は、『自分の柱』を構築するために、日本に帰ることを決意しました。

これまで述べてきたように、当時の僕といえば、ギムナジウムでは勉強についていけなくなる一方。かと言って、日本語に対しても自信が100%あるわけでもなく。この中途半端な状況を一刻でも早く打破せねばと、とにかく焦っていました。それと同時に、ギムナジウムでの勉強についていけなかった分、知識欲は旺盛だったのですが、そのままドイツの大学に進学したら、ドイツ語に対する不安を払拭できず、また負の連鎖に陥ることを恐れていました。

そこで、「まずは日本語を自分の中の柱としてしっかり確立させよう、そして、語学力を身につけることへの抵抗をなくそう、そうしたら、波及効果的にドイツ語もがんばれるだろう」と、まずは日本語に焦点を合わせることにしたのです。

僕にとっての『柱』は日本語だったわけですが、ドイツ語よりは日本語を使用しているときの方がより自分らしくいられたことから、何語を柱として定めるべきかを決断するに際して迷いはありませんでした。そのため、日本の大学に入ろうと決めたのも、自然な帰結でした。

当時はちなみに、「将来は〇〇になりたいから、〇〇大学の〇〇学部に入りたい」という具体的なビジョンはまだなかったのですが、柱づくりを意識し始めてからは、「日本に帰ればなんとかなる」という、根拠のない自信はありました。

僕の意識改革は、高校時代の終盤に突然起きたのではありません。今思えば、現地校での学習内容の和訳を試みたり、日本語で日記をつけたりすることはすべて、日本語という柱を自分の中で確立させるための重要な準備段階だったのです。

日本語習得に際して自分が過去にとったアクションが柱づくりにつながったわけですが、その後はどうだったか。これから述べていくように、柱は予備校、大学を通じて強化されていきます。また、その過程は大人になった今もなお、続いています。人生は一生勉強、ですね。

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