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昭和に逆戻りなメンタリティが麻雀をつまらなくする

1.麻雀は逆転が面白い!!
2.変な打ち手はいじめられる
3.麻雀は豊かな文化的「遊び」であるはずが・・・
4.不況により芽生えた「心の貧困」
5.麻雀は点棒の奪い合いか、渡し合いか
6.賭博としての麻雀とレクリエーションとしての麻雀
7.今の麻雀は、意地でも勝たないといけないゲームですか?
8.今の麻雀に必要だと思う五つのこと
9.見られて恥ずかしくない麻雀≠ただただ強い麻雀

今日の感想と独断と偏見と31歳のおじさんの主張です。


麻雀は逆転が面白い!!

逆に麻雀は、一人浮きや一人沈みが、一番面白くないのです。それは何故かというと、
「順位がなかなか入れ替わらない」からだと思います。

まず、誰かがダントツで一位になって、一人浮いている事を考えてみます。そうすると、点差がある分だけ全員が打点のあるアガリを目指すために、打ち方が荒くなり、河が偏り、物凄くベタオリしやすく、オリ打ちで振り込むことも、なかなかありません。
オーラスに近づけば近づくほど、勿論順位のために更に打ち方が荒くなります。

ある種、一位じゃなくとも、最下位にならなければ良いというラス回避ルールは、どんどんプレイヤーが荒れ場を作り出そうとする流れに、ストップをかけるルールだと思います。

とはいえども、皆が渋々の二位狙い、安アガリでラスを他者に押し付けて三位浮上、というのも、なんだかモチベーションの下がる世知辛い打ち方で、個人的には「折角打っているのだから、現実的な範囲で狙える最高順位を!」と、思います。

次に、誰かが一人沈みで4桁3桁点くらいまで下がっていることを想定します。そこでハコテンでトビありルールだと、皆よってたかってラスの高打点狙いにつけ込み、リスキーなラス目の打ち方を利用して、ラス目から搾り取って自分の着順を安定かトップに持っていこうとします。

ああ、もう。下品だと思いませんか!
一人が勝っていたら、ふてくされて最下位をひたすら回避するとか!
一人が負けていたら、いじめて負けている人を利用して、勝ち上がろうとか!

逆転が一番面白いじゃないですか!!

変な打ち手はいじめられる

もう、こういうのが当たり前の世界で、麻雀を打つのはウンザリです。そこまでして、他人より上に行こうとするその姿勢。はたして、遊びとして楽しいでしょうか。
ただでさえ、仕事において、競争に次ぐ競争で、皆疲弊しているんですよ。
いわゆる「マナ悪」と呼ばれるわかりやすい形の下品さや野蛮さではなく、もっと性質が悪く、ルールの範囲内で怒りが呼び込む苦しい争いに勤しむのです。
さらには、定石から外れた打ち方を嘲り、近視眼的に人様の打ち筋に、「下手」だの、「上手い」だの・・・。
結局、結果論で正しいだの間違ってるだの、適当に言えるのは、後出しジャンケンだからですよ。

麻雀は豊かな文化的「遊び」であるはずが・・・

最近の麻雀のギスギス感。一言で言えば、レジャーやレクリエーションのやり方がとても下手なのです。日本におけるレクリエーションの芽生えは、皮肉にも戦後占領米軍が持ち込んだものですが、
このレクリエーションは「生きるために労働し、寝るだけの毎日」というものが、遊びやエンターテイメントにより、人生に多くの彩りを与えるものとなりました。
恐らく米軍としては、あまりに日本の人々が荒廃すると、統治不可能になると見込んでの緩衝材としての導入だったのでしょう。

ですが、この後に日本は独自のレクリエーションの形態進化をしていき、一見華々しい高度成長期には職場レクにおける「気晴らしの時間」がありました。神武景気・岩戸景気・いざなぎ景気と好景気に明け暮れて、
不敬にも電化製品に「三種の神器」と名付け、冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビの普及、"3C"と呼ばれるカラーテレビ・クーラー・マイカー信仰と、余りにもうなぎ上りな技術革新と技術信仰、技術の普及と廉価化により、
さらには、東京オリンピック・新幹線開通・大阪万博・海外旅行の自由化などで、人々は自由と引き換えに、ある種正気の沙汰ではなかったともいえます。
一言でいえば、皆が調子に乗っていたんですね。

バブル期の比ではなく、特にホワイトカラーの人々の暮らしの水準が上がり、仕事の水準も上がり、多くの人は「遊ぶ余裕」がありました。

不況により芽生えた「心の貧困」

とはいえ、いざなぎ景気があれば、いざなみ景気もあるのは必然。73年から始まった第一次オイル・ショックによる経済の低迷により、人々は相対的貧困により、心の余裕がなくなり、遊びに使っていたお金は「買い溜め」へのお金と化しました。
浮かれ調子だった十五年ほどは、工業生産の効率化と、それによる「虚栄の物質的欲求の充足」がその正体だったのです。この「機械や技術による効率化」、最近流行りの何かに似てませんか?

そして、「当たり前にあるものがなくなる」という事に人々は混迷し、物凄い貧困にはならずとも、大きな「心の貧困」が芽生えたのです。集団より、仲間より、誰よりも、自分、自分。心が天動説状態なグロテスクに陥ったのです。

麻雀は点棒の奪い合いか、渡し合いか

あれ・・・これって・・・
最近の人々の超個人主義メンタリティと、通ずるものが、ありません?

すなわち、「貰えるモンは人より先に多く貰っとけ」という野蛮なメンタリティが生まれたのです。都市的な空虚化したコミュニティとも、相まって。

じゃあ、どうすればいいんだ!麻雀と関係があるのか!?


・・・あります。ですが、点棒はトイレットペーパーじゃあ、ありません。点棒が無くなって折角持っている家電を節電しないとだとか、点棒が無いから車が使えなくなるだとか、点棒がなくなって生活に困るだなんて、そんな事はありません。もし、それが起きるなら、「ギャンブルとしての麻雀」においてのみです。

賭博としての麻雀とレクリエーションとしての麻雀

再三、言います。今や麻雀は、奥深くタフで老若男女が楽しめるレクリエーションです。
一方で、昭和の頃は賭け麻雀が当たり前で、不況も相まって、手段を選ばない無頼や瘋癲の道楽としての立ち位置でした。自動卓がないが故にイカサマが多かったり、日本式麻雀の打ち方のメソッドやルールの未熟さもあり、抜け穴を知るズル賢い人が勝つという酷い時代でした。
ここから70年代から徐々に徐々に、グレてしまった人たちの遊びから、健康麻将や、天鳳などの無料ネット麻雀と、健全化していったのです。
まさしく、最近の麻雀の競技化と重なるところですね。

勿論、賭け麻雀は違法なので、テンピン以下のレートまで検挙するのはかなり大変ということもあるのかわかりませんが、警察は高レートのみ検挙ということにしてましたが、祝儀チップや白ポッチなどの抜け穴を利用したものも、あるようです。このような世界は、まあ今やヤンチャかグレてる人たちの世界でしょう。我々一般市民には、本来縁のない世界のはずです。

ですが、最近の打ち手による、「勝つためには手段を選ばない」麻雀は、まるで何かが賭かってるような殺気立ったものを感じます。

今の麻雀は、意地でも勝たないといけないゲームですか?

必死にならないと損失するゲームですか?雀聖から雀豪に降段したら、お財布が空になるんですか?

確かに、射幸性があった方が人々は熱中し、我を忘れ、エサが出るか出ないかわからないボタンを押し続けるでしょう。でも、過去多くの人が、それで身を持ち崩してきました。それにより、経済が衰退しないように、射幸性の罠に対して抗ってきた人たちも沢山居ます。

今の麻雀に必要だと思う五つのこと

なので!今の麻雀に私が必要と考える潮流は、健康麻将の「賭けない」「呑まない」「吸わない」に加え、「負の感情を表に出さない」「対人であることを忘れない」という、この5つを守る、円滑で温和なコミュニケーションツールとしてのゲーム、それが2024年の麻雀だと思います。

雀力はあっても、「あの人とは同卓したくないな・・・」と思われたら、いつしか誰も麻雀において相手にしてくれなくなり、同卓出来ても他の三人に邪険にされて、カモられるようになるかもしれません。

見られて恥ずかしくない麻雀≠ただただ強い麻雀

結局、麻雀においても、礼節や所作、立ち振る舞いが重要ですよ、対人ですから。ここで隠すべきを隠さないと、心理ゲームとしての麻雀の側面を利用されて、自ら不利になっていくだけです。

なので、「この人はこういうセコい打ち方する人格なのね」と強者に読まれたら、その弱点を突く打ち方をされるでしょうし、
「この人は派手な打ち方で見栄っ張りな人格なのね」と読まれたら、これもまた弱点を突かれ、負ける事でしょう。

「確率が高い方が必ずしも偉い」という風潮もまた、「勝ち急ぎ」「手段を選ばない」「あたかも何かが賭かっているよう」にしか、私には見えないのです。


久々に長文&拙文、失礼いたしました。
結局、他人のアガリにおめでとうって素直にいえないと、単なる大人げない喧嘩ですよ。

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