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「ベクトルを外に向けないと。」そう言い聞かせていたけれど

気づけば内省を始めている。

これは私の思考の癖だ。
私の長所と呼んでもいいのだが、毒となることも日常茶飯事。
だから、内省しすぎる自分を封じたい、隠しておきたいと思ってきた。

しかし、今日、少し考え方が変わった。
「孤独」に対するポジティブな議論を知ったことで、内省好きな自分への見方が変わったので、記録しておきたいなと思った。そういう話。
推敲をしていないので、読みにくいかも。


終わりなき自己との対話

INFJの方はご承知の通り、過度な内省は、高すぎる理想と現実のギャップを際立たせてしまう。頑張りすぎや虚無といった極端な結果を招いてしまう。いろんな境目が分からなくなる。結果、自分の首を絞め続ける日々。

過度な内省モードに入ると、自分に対する否定的な考えしか浮かばなくなり、負のループに陥る。外界に目を向ける余裕や気力がなくなってしまう。
あるいは、自分の内に答えを探して必死にもがき続ける。
内省に内省を重ねることに、歯止めが利かなくなる。コントロールができなくなってしまうのである。

内省は、本来、改善していくため、前進するために行うものであろう。
それなのに、過度な内省を抽象度の高いまま行い続けることに、ある種の心地よさを感じている私に気付き、嫌気がさすのである。

だから、私は「ベクトルを外に向ける」ことを意識するようにしてきた。それは、1人でいようとするのではなく、誰かと関わろうとすることを含む。
「ベクトルを内に向ける」程度を適度にするために。
孤独を愛しすぎないために。
でも、コントロールが上手くできないことに悩んできた。

内に閉じこもり続けた先の喜び

もちろん、内省は悪いことばかりではなく、私の長所でもあるとは思う。
内省の日々から生まれる「何か」に、私は喜びを感じてきた。

学術的研究の過程では、探究や洞察のプロセスが必要となる。
長く、もどかしく、よくわからない日々に耐えた先で、いろんなものが繋がり、気づきが生まれた時の感覚が心地いい。

逆に言えば、その感覚にたどり着くために、一定期間の孤独を必要なのだと理解してきた。これまでの経験では、何日間か、何週間か連続して、自分の好きなだけ引きこもって、先行研究やデータと向き合える期間が得られた時、何かしらにたどり着けて次に進めたことが多いからである。

その間、誰とも関わりたくない、誰にも邪魔されなくないという思いが強くなる。ただ一人で、文献と向き合い、没頭し続けたいと思う。

研究に関係ない内省でも、同じことがよく起こる。
誰かと関わるのは大事であることは分かっているし、人に会って楽しいよかったという思いは抱くのだけれど、基本的に1人でいたい欲が強い。
この欲との付き合い方が、よく分からないのである。

孤独と寂しさ

今日、友人と「孤独感」の話になった。
お互い、他人とは適度の距離感を保つところが共通点だ。
社会人になり、週4日リモートワークの友人は、彼氏がいなかったら孤独感に苛まれていたかも、と話していた。でもだからといって、同僚たちのように、毎週集まって飲み会をしたいとは思わないと。

昨年に付き合いの長かった彼氏と別れた私は、こんなことを語っていた。
院生になって友人との遊びが減り、彼氏とも別れた今、「寂しさ」を感じることはある。でも、20代の今、「孤独」としっかり向き合って、「孤独」との付き合い方を試行錯誤できる期間が得られたことに、嬉しさも感じていると。責任を背負わず、研究や自分磨きにも没頭できる。家族ができたって、結局「孤独」であることには変わらないのだから、今知っていて損はない。

この発言は、本音なのか。それとも、ただの強がりなのか。言い訳なのか。
帰り道に考えてみたが、どれも正解であるような気がした。

家に帰って、孤独に関する哲学についてさっと調べてみた。

ハンナ・アーレントは、「孤独」と「寂しさ」を区別していると知った。
「孤独」とは、自分が自分自身と一緒にいられることであり、「寂しさ」とは、自分と一緒にいてくれる人を求めることであるという。

孤独だからといって、人間は必ずしも寂しさを感じるわけではない。また誰もがいつでも孤独に耐えられるわけではない。寂しさを完全になくすことはできない。孤独のうちにあることは人間がものを考える上でとても大切です。人は孤独の中で自分自身と対話するのであり、それが思考なのだというのがアレントの結論です。

嗜好品は思考に不可欠な「孤独」を生み出す。哲学者・國分功一郎 | DIG THE TEA

ほんの少し勇気を持って「気を紛らす」ことを減らして、あえて「空白の時間」を作ってみること。「孤独」を怖がることなく、自分の内に控えるもう一人の自分と静かに対話をしてみること。そうすれば、きっと自分らしい人生が動き始め、いつか「地下水脈」の英知とつながる至上の喜びをも経験するに違いない。

私たちはなぜ「孤独」を恐れるのか? | nippon.com

素敵な哲学だと思った。
孤独を愛してもいいじゃないか。それも本質的な行為なんだ。

これまで、集団に属すること、仲間と何かをすること、他者とつながることのできる能力が強く要請される時代の風潮に飲み込まれていたなと思った。

でも、孤独の中の内省の時間には、潜在的な価値がある。
だから、内省に時間を費やすことに対して、他者と上手く関われない自分から逃げている状態というネガティブな評価をする必要はないだろう。

結論は、まだうまく言葉にできない。
1人でいたい欲や、内省癖をバランスよく活かせるようになるしかない、という事実は変わっていない。内省⇒行動の速度を上げていく必要がある。
でも、集いを好む人々を内省から逃げているとみる視角は、私の認知の歪みを緩和してくれたように思う。

ちなみに、今これを書きながら、「内向型」向けの本にも似たようなことが書いてあったなーと思い出した。今読み返せば、新しい気づきが得られそうである。

「孤独」の肯定の先で考えたいこと

最後に、2つの論点に触れたい。

まずは、研究者の行動力と内省について。
最近の院生には、社会と連携できる能力が求められる。実践と関わり、実践を他者と創っていける人材が重宝されている。研究のプロセスには、深い洞察ができる行動力や主体性が必要であろうが、同時に「ベクトルを外に向けること」に加え、誰かと協働できる行動力や主体性も求められている。
これまで成果を残してきた偉人たちは、両者を兼ね備えた方々なのであろうが、私の中では、まだ両者が矛盾している。
これからの課題である。

次に、社会全体の孤独と寂しさについて。
孤独・孤立対策は世界共通の社会政策課題となっている。(そういえば、アーレントの概念は、この文脈で聞いたことがあるはずですね。)
孤独に耐えられない現代人、社会構造の中で孤立に追いやられる人々、孤独と孤立を悪とし、相互の支え合いとつながりを善とする社会政策。
哲学を通じて生の本質に向き合う時、量的調査からは明らかにしきれない孤独・孤立の問題の新しい側面が見えてくるように思われる。

参照したサイト
私たちはなぜ「孤独」を恐れるのか? | nippon.com
嗜好品は思考に不可欠な「孤独」を生み出す。哲学者・國分功一郎 | DIG THE TEA
孤独な時間がなければ、人は何かを成し遂げることはできない #2 言語が消滅する前に|幻冬舎 電子書籍 (note.com)
何度も心身の危機に直面した哲学者が語る「孤独」の本当の価値 「ぼっちでラッキー」と思えるか | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

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