民主主義について私が知ってるニ、三の事柄
菊地成孔がXを引退するらしい。
少し目を通してみると、Xを始めたのは角川に対するサイバー攻撃で自らのコンテンツが更新できなくなったための一時的な避難所としてのことだったようだ。しかしそのアカウント閉鎖の告知ポストを読むと、Xおよび今日の日本の民主主義(あるいは民主主義そのもの)に対する絶望的なまでの諦観が見て取れる。私はここ数年の彼の動向を全く知らない。繰り返すが本当に長く音楽や文学、哲学、思想といった営みから離れてしまっていた。しかし彼の気持ちは少しは分かるつもりではいる。というか、彼は至極真っ当な感性の持ち主であったがゆえ、Xにいることができなかったのであろうと想像する(こう書くと「私変わってるんです」アピールとも聞こえなくもないし、菊池本人がこれを読んだら、いや100%読むことはないだろうが、勝手に分かったつもりになるなと言われるに決まっている)。彼は、平凡な言い方をすれば、ものすごく誠実でまともな人間なのだ。
無断転載になるのは嫌なので、引用という形でいくつかその主張を見てみよう。公開された文章である、引用ならば許されるだろう。
アカウントを閉鎖するらしいのでリンクはすぐに切れるだろうが、引用のルールとして出典を貼っておいた。
Xに触れたことのある者なら、この感覚は理解できると思う。それでも声をあげようという人たちの行動を否定するつもりは私にはないのだが、Xが「むしろ悪い人を上げるための道具としての方が、はるかに高い効力がある」(同上)ことは同意せざるを得ない。
このポストを読んでいて、モーゼス・フィンリーの名著『民主主義』における現代民主主義に対する鋭い批判を思い出した。古代ギリシアにおける「理想的」な直接民主制はもちろん、社会の閉鎖性や規模の小ささ、あるいは奴隷の存在によって成立していた側面もあるだろう。いずれにせよ現代では直接民主制は不可能だ。しかし間接民主制は必然的に「政治家」を産む。「一回全員クビにできる選挙があるなら、僕は行きます」(同上)とする菊池ももちろん、その後また同じ結末を辿ることは理解しているだろう。
木庭顕『政治の成立』という極めて難解な書がある。ホメロスの『イリアス』、『オデュッセイア』のテクストを構造主義的観点から綿密に分析し、「政治」というものがいかに成立したのかを研究したものだ。正直一般向けの書ではないのだが、人文学の大学院に行こうというのなら読んでおいてほしい本である。あるいは同じテーマの本としては、クラストルの『国家に抗する社会』などが挙げられよう。こちらの方は文化人類学に関心のある人ならば読みやすいかもしれない。どちらも、「政治」は元来周到に権力の集中や暴力の直接的発動が生じないようにする「ため」に成立したこと、そしてその仕組み自体が社会構造に綿密に組み込まれていたことを詳細に論じている。
今我々はここに立ち帰る必要があるのではないだろうか。そもそも政治とは、民主主義とは何だったのか。今一度本気で考えてみる段階にあるのかもしれない。
では最後に、菊地成孔のDCPRGから一曲。
思い出した、私はDCPRGが好きだった。久しぶりに『アイアンマウンテン報告』を聴こう。