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村上春樹の『正解を用意せずとにかく描写する』

村上春樹がエッセイで、「正解を用意するのではなくて、とにかく描写をすることが大切だと思っている」と書いているのを読んで、ハッとした。

私が村上春樹の小説を読むのは、正解を知りたいんじゃなくて、たくさんの描写を読むことが好きだからなんだ。

村上春樹の文章を読んでいると、その不思議な感じに、「なんだろう?この気持ちは」と思うことがある。少しモヤモヤするけれど、もっともっと読みたくなる。どこか中毒性があるような感じもする。

それが何なのかはっきり分からなかったけれど、何だか少し分かったような気がした。

村上春樹の小説を読んだ後、あれこれ想像したり、あるいは「どうして?!」と腹を立てたり、共感したり、その先の主人公の人生を想像したり。それは紛れもなく読書を通しての自分自身の『体験』で、誰かのストーリーを外野から見ているただの観客ではない。

じゃあ「正解はこれですよ。」と用意されたストーリーには感動しないか、というとそんなこともなく、私は面白ければどんな本でも読みたい。

ただ村上春樹の小説がなぜこんなに他と違うように感じて、読みたくなるのか、それがずっと気になっていた。

なんとなく分かったような気がする。

私は村上春樹の本を読むことで、たくさんの描写を読み、想像し、その世界に入りこむ。そこで体験したいんだ。自分自身の体験を。だから他の本を読んでいても、「それそろ村上春樹の本が読みたいな」と思ってくるのではないだろうか。

たくさんの描写があって正解や答えを用意せず、さも観客に「さあ、あなたはどう思いますか?」と問いかけてくるようなタイプのストーリーは、映画でもよくある。

私は夫と村上春樹の本を同時に読み、読後に色々と議論するのが好きだが(夫はイギリス人なので英語の翻訳版を読む)、イギリス映画『アフターサン』を観ていて、同時に全く同じことを思って声に出したのがミラクルだった。ミラクルすぎて、「これはきっと他の人も思っているに違いない」と今では確信している。

「この映画、めちゃめちゃ村上春樹っぽくない?

『アフターサン』でも、細かい描写がたくさんある。主人公のシングルのお父さんが、娘と一緒の休暇中に、頻繁に危うい表情や行動を見せている。その描写が長回しすぎて、こちらがとても気まずくなるようなシーンまである。

これは村上春樹の本でもよくあることだ。「なぜこの描写がこんなに長いんだ?何か意味があるのか?」とこちらは考えざるを得なくなる。こちらが「気まずい」と思っても容赦はない。描写は続く。

『アフターサン』には、11歳の女の子と、シングルのお父さん、二人のキャラクターしか出てこない。(他の人はみんな一瞬の脇役という感じ)二人の演技が素晴らしく、監督・脚本は女性でまだ若い、新進気鋭の人物、シャーロット・ウェルズ。アフターサンは、自伝的要素を含む作品なのだと言う。どこまでが自身の体験なのだろう?と思うけれど、彼女は多くを語ることは避けている。(そんなところも村上春樹と似ている)

この映画でお父さん役を演じたポール・メスカルは、これで高い評価を得て、今では新しいグラディエーターの主役。

私も村上春樹の本にハマる前だったら、「この映画、なんか退屈!」と途中でやめていたかもしれない。最後まで、気まずい思いをしながらも釘付けになって鑑賞したのは他でもない、「この映画、どうしてこんなに村上春樹っぽいの?」という私の疑問の答えがどこかにないか、探していたのだ。

村上春樹のエッセイの中に、それはいくつかあった。

「正解や答えを用意するのではなく、とにかく描写する。小説家って、そういう仕事だと思っています」

そんな文章を読んで、私は妙に納得がいった。

正解や答えが用意されていない、ということが強く意識された作品は、小説であっても映画であっても、往々にして「分かりにくい」という印象を与えるのではないだろうか。

村上春樹の小説だって、「よく分からない」と言う人もいる。同じスタイルの映画も然り。

ソフィア・コッポラ監督の映画も、軽いタッチでより分かりやすいが、正解を用意しない村上スタイルが基本なのではないか、と思う。より万人受けするように、観客を気まずくさせないように、オシャレに作られてはいるが、根本のところでは同じ種類だという気がする。『バージン・スーサイズ』とか、『ロスト・イン・トランスレーション』を観ていると、最後に「?」ってなった後に、映画の中での描写がわーっと追いかけてきて、私に何かを考えさせようとしてくる。

レズビアンカップルを描いたフランス映画『アデル、ブルーは熱い色』とかも、描写が多く、どこにも正解がない気がする。

村上春樹の本がこれだけ世界で読まれているということは、正解や答えのない作品が人々に人気がある、ということだ。映画も同じ。

映画の場合ではそうした作品は玄人向けというか、映画界で賞を取ったりする確率が高いとも思う。

これから村上春樹の小説を読む時は、その多くの描写を意識して読んでいきたいと思う。

覚えておきたい。

ラストに正解は用意されていない。そこには答えのようなものもない。

私にとっては、そこに辿り着くまでの体験こそが、村上作品を読む理由なのだと思う。

ちなみにもう一つ、村上春樹のエッセイで強く印象に残ったことがある。

「世界のどこでも、僕のファンの女の人は、綺麗な人が多いです。いや、これ、本当に。」

という一文だ。

もしかしたら、いつかご本人に会えることがあるかもしれない。そのジンクスを壊さないためにも、美容にもしっかりと気を使って、生きていきたいと思う。

『美』の正解が何かは分からない。けれどそれを私自身が探す旅である。

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