不幸に憧れる潜在意識
これ自覚したら世界線変わるんじゃないかというレベルの気づきを得ました。(大げさ)
今回はスピリチュアル要素多めの記事となります。
私は思春期に負った傷に蓋をして生きていくために長らく観察者としてこの世を傍観してきたが、幼少期にはまださすがに主人公としてやっていく気概があった。物心ついた頃から聡くはあったけれど、すべてを冷めて俯瞰するほど達観してはおらず、まぁどこにでもいる元気な子どもだった。
そんな幼少期の私は、変わった人間になりたいという願いを持っていた。子供の頃には誰もが夢想することだ。アニメの中の戦士みたいに選ばれた特別な人になりたい、自分だけの特殊能力が欲しい、ドラマチックな運命に翻弄されたい……。そんな非科学的な憧れは成長とともに薄れて、代わりに私の空想癖は二次元オタク方面に移っていくのだがそれでも『変わった人間になりたい』という想いはいつも根底にはあったと思う。
人と違わなければ私が私である意味がないと子どもながらに思っていた記憶がある。思えばここらへんからもう自己肯定感が怪しい気がするが、私はここに生きているだけですでに唯一無二の『私』であることに満足できなかったのだ。あんなに親に愛され友だちに好かれても『私が私であるから十分だ』と思えなかった。だからなにか特殊能力だったり、あまりにも秀でた才能みたいなものを欲しがった。
ただ単に元から理想主義の厨二こじらせ少女で、アニメの世界と現実の区別をはっきりさせないまま成長してしまったのか。
それとも覚えていないだけで、自分の個性を否定される又は取るに足らないものだと思わされる出来事がうんと小さい時にあったのかもしれない。それで現実世界そのものに嫌気がさしたのかも。もっと深堀りすると、それが私の前世からのカルマというやつかもしれない。
とにかく私は人とは違う自分でいたかった。個性が欲しかった。
私の境遇は恵まれていたといっていい。一人っ子で両親や祖父母から愛情たっぷりに育てられたし、旅行にもたくさん連れて行ってもらった。習い事もたくさんさせてもらった。勉強にも運動や芸術方面にも少しだけ器用にやれる才能があったから、どれをやってもそこそこ満足できた。
今考えても何も不満に思うポイントはないし、どこにでも輝く場はあったのではないかと思う。
でも私はどれも選ばず、幸福な家庭のありがたみも顧みず、『不幸』を望んだのだ。
それに気づいたのは先日投稿した就労支援施設のことについて考えていたときだ。この社会で生きづらい若者が集う溜まり場で仲良くなった女の子たちの境遇の話を聞いて、私は月並みな感想は抱いたけれど、そこには実感が伴っていなかった。私には家庭崩壊というものがわからなかった。
そういえば大学でサークルに入り浸っていた時も似たような思いをした。同級生の中にとても可愛い女の子が居て、その子の家庭環境が複雑だということで数人が相談に乗っていた。その数人も恐らく境遇に似た経験があるのだろう、かなり親身に力になっていたようだった。私とはあまり仲の良くない子だったから詳しい事情は分からなかったけれど、そのとき私は強い羨望を抱いたのを覚えている。一つは私も悩み(自信がなく自己卑下してしまうこと)を抱えているのになかなか人に相談できなかったから、そもそも相談できていいなぁということ。もう一つは、私がどうやったって体験できないことを体験していることへの羨ましさ。
非常に安易で敬意の欠いた発言だが、暗い経験をした人特有のなにか強いオーラと結びつきに惹きつけられていた。
そうだ、私は不幸に憧れていたのだ。
私はずっと、偶然いじめがあったからこんな人間になってしまった、加害者のせいでこうなったと思っていたけれど、そうではなかった。
私自身が望んでいたのだ。
それもはるか昔から。
私はただひたすらに、欲張りだったのかもしれない。幸せな家庭にいながら、恵まれた才能をもらいながら、不幸とはなんだろうと思った。
不幸から這い上がるとはなんだろう。なんかすごそうな気がする。それこそ現実という物語の“主人公”にふさわしいのではないか。『陰』の部分こそが人を心に輝かせるのではないか。
アニメのキャラのように変身できず魔法が使えない以上、特別になるにはこのままではいけないと思ったのかもしれない。潜在意識は、そっちの願いを強い意志として受け取ったのかもしれない。当たり前に幸福に健やかに生きるよりも、不幸を体験する方に強い想いがあると。それこそが私を成長させると。
成長するという意味なら、確かに。とてもたくさんのことを学ばせてもらったし、視野も広くなったと思う。あのまま……恵まれたまま生きていたら……。人並み程度の成功と挫折を味わって生きていたら、きっと私の脳の中身は春の草原のようで、色とりどりの花が咲き乱れて、それは陽気で美しかっただろう。しかし私は鬱蒼とした冬の大地に立つ廃墟の“味”も知った。それはそれでとても美しいのだ。
私は最近スターシードというスピリチュアル界隈の言葉に出会った。この地球ではないどこかの星から、地球の次元を上げるために派遣された魂のことを言うそうだ。次元の上昇とはなにか、ここではない星とはどこか、突拍子もない話ではあるし証明のしようもないわけだが、特徴としてよく挙げられている『地球で様々な体験をするためにハードモードの人生を選びがち』ということに妙に納得してしまい、ひょっとしたら私もそうなのかも……数秘術も33だし(33は宇宙人と言われている笑)と思ったりもする。私は幸福も不幸も体験したがった。幸福は家庭でこの上なく与えてもらったから、私は成長の過程で不幸を呼び寄せることにした。いじめに遭い、精神的に不安定になり、不定愁訴を経験した。周りと比べてうまくいっていないと焦ったり嫉妬したりする気持ちや、先の見えない途方もない空白の時間を呆然とやり過ごす時間……あの放心をも私が望み、体験したがったのだ。
私は今年、地元を離れていろいろな場所で住み込みの仕事をしてきたわけだが、そのほとんどがいろいろな理由で合わなくて、短期間で帰宅するという残念な結果で終わっている。渦中にいる時はとにかくつらくて、途中で限界が来て辞めますと帰ってきてしまうのだ。そのことに忸怩たる思いはあるものの、不思議と終わってしばらくすると懐かしくなったりまた行きたくなったりしている。良い経験をしたなぁと必ず思っている。
今までクリーニングをしていなかったから、つらい職場の記憶がループしているのだとは思うが、そういう合わない職場を渡り歩くことも私自身が望んだことなのかもしれないと今は思う。なにせ苦難の経験には学びが多い!
それでもあまりにも運が悪く、消耗激しく、しんどくなってきたから私はホ・オポノポノの本を読んでクリーニングをすることにした。noteに書くことにした。
自分を見つめていくうちに、不幸に憧れ不幸を望んだ自分というのをいま初めて受け入れた。あの頃の私は心底主人公になりたかったのだ。特別な存在になりたかった。ただ漫然と生きているだけでは大した人間にはなれないと潜在意識で感じたから、過酷な道を選んだ。
その記憶を、私は感謝とともに消去しようと思う。そして空いた隙間に今度は……やはりたくさんの色とりどりの花を咲かせたい。
廃墟に花を咲かせるというビジョンが見えた。極彩色の花である必要はない。廃墟の美しさを損なわない控えめかつ美しい花で埋め尽くして、誰の胸にもない私だけの調和の取れた世界を作り上げたい。
具体的な希望や期待を持たないことがホ・オポノポノの鉄則である。私はただ私の強欲(さまざまな経験をしたい欲求・それによって生じた出来事に不満を持つ傲慢さ)を手放して、ゼロになった自分に会いたい。
そこからまた花を咲かせられるような……。
過去を振り返るときだけじゃなく渦中にいる時もたのしくて仕方ないような、ハッピーに満ちた第二の人生を生きたい。それだけだ。
【ありがとう】
【光を与えてください】
【認めます】
【愛しています】
ハワイ語の直訳だとホ・オポノポノのマジックワードはこの4つらしい。こっちのほうが神聖な感じがしていいかもなぁ。
ホ・オポノポノについて
https://hooponopono-asia.org/jp/
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