『手放す』勇気
日雇いの単純作業をしながら、昨日投稿した“不幸に憧れる潜在意識”のことについて考えていた。
私は小さな頃に主人公になりたくて、誰ともかぶらない個性を手にしたがった。魔法が使えたり出自が特殊だったり、そういった『特別』が望めないと幼い時分に察してからは、“苦労”を求めた。ジャンプ漫画のキャラクターのような、身を裂くつらい経験こそが特別な存在になれる条件だと思ったから。
そうして実際に人生に挫折してみると呆然とし、運命を呪った。なんでこんなつらい経験をしなければならないのだろう、周りはあんなに楽しそうにしているのに!(この発想も全く想像力が足りてないが)
自分が潜在的にそう願ったことすらも忘れて、こんな暗い人生は嫌だと嘆息した。
しかし一方で私は昨日、心の中の荒廃した部分を廃墟と例えて、それもそれで美しく愛おしいものだと結論した。たしかにそうなのだ。苦しい経験をしなければ感じ得なかった領域がある。底辺を垣間見なければ分からないことがある。私の好きなあの硬派なアニメや、小説や、ドラマは私が暗闇を歩いてきたからこそ素晴らしく映ったのだろう。そして逆に明るいコンテンツに対するありがたみや希望も以前より増した。
陰陽という言葉がある。陰と陽のバランスを取ることはすなわち真理を知ることなのではないか。私はそれを手にしたかったのかもしれない。
となると、ホ・オポノポノでつらかった記憶をすべて消去依頼し、ゼロに戻るということについては、どうだろうか。
いまハッキリ自覚したが、心の廃墟を失うことを名残惜しく思っている自分がいる。長く『陰』の世界で自分を表現しようとしてきたから、その世界にしかない独特の、痛々しいまでの美しさを手放してしまうのが惜しいのだ。
大いなる矛盾。絵に描いたような明るく幸福な生活を夢見ながら暗い部分も切り離したくない。やはり私は強欲すぎるみたいだ。
しかし何かを得るためには失う覚悟もしなければいけないとも思う。
私は今まで何も手放せなかったからついに袋小路に追い詰められたのだ。
そんなこんなで頭の中がごちゃごちゃになって他にもいろんなことを考えた。結局どうあることが私らしいのか、どれが本来の(ゼロの)私に近いのか。もしかして特別な存在になりたいという幼少期の一途な願いと、ありのままの自分を愛し愛されるようになりたいという現在の思いは矛盾し衝突するのではないか?
また、私の解放とはどこにあるのか、どこに遡れば真の私なのか分からない。幼少期の私が本当の私であり幸福な姿なのだろうか。つまり元気で活力があって少し繊細なところはあるけど自信があって大抵の人には愛される私というのが真実だろうか。しかしこれだけ『陰』に引き寄せられ長い期間共にしたということは、本質は影のある私の方なのではないか。
そういうことを一通り考えたあとで私はこれがいけないのかとハッとした。つまり原因を延々と考え、唯一絶対の真理を見つけ出そうとすること……。膨大な記憶のどこに何のきっかけがあって何がベストの選択なのかなんて顕在意識の“私”には到底及ばないことなのに、なお深く考え続けるのは意味がないだけでなく問題を複雑にするだけだと思う。因果のもとを積み重ねるだけだ。
だから『消去』することが大事なのかもしれないと思う。消去という行為はある意味無慈悲で善悪がない。正解不正解などのジャッジがない。ただひたすらに手放しを行い、あとは自身のうちにある大いなる存在に任せる。
たとえば私はつらい経験から来る『陰』の美しさを手放したくないと思うが、その執着をいったん手放すことでなにか別のもっと美しい経験できるかもしれない。クリーニングするといってもすべての経験が無になるわけではないだろう。必要な感情や景色は残っていく。そうでなければただの記憶喪失だし、生きている意味がない。
だとすれば、クリーニングは記憶の垢を取っていくというイメージのほうがいいかもしれない。いったん記憶の根源を丸ごと明け渡し消去するようにインナーチャイルドに依頼する。その中から必要なものと必要でないものとを大いなる存在が選別する。すると垢の部分だけが消去され、大切なものは残っていく……。
そう考えるだけで、引っかかっていた部分がほどけていく心地がした。私は自分の中の廃墟のイメージすらもいったん手放して、大いなる存在に委ねようと思う。それでもそのイメージが消えず心に残ったら、美しく荒廃した景色を抱きしめて、改めて花を咲かせていこうと思う。
私は私の中の神をもう一段深く信頼してみることにする。
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