他人の顔色を見たくないと思ったら本当に見えなくなった話

人はあまりに強く願うと、その願いはいつしか叶うようにできているらしい。これはいわゆる引き寄せの法則というやつだが、私はある程度本当のことだと思っている。そして残念ながら、ネガティブな方にこそこの法則が強く現れてしまうのではないかと感じている。負の感情は大抵は激烈なパワーを秘めているからだ。

私はある時……それがいつだったか判然としないが、たぶんいじめ事件と地獄のクラス替えを経た中学3年生のいつかだったと思う。
近所を歩きながらいつものごとく悶々と何かを考えていて、いつものごとく思考の暗闇を彷徨っていた。そしておそらくなにか嫌な結論に達したのだろう。もしくはデジャヴのようにすれ違う他人の顔の中に何かを見たのかもしれない。発作的に《人の顔色を見たくない!!》と思った。いやあの瞬間もっと強烈に《見えなければいいのに》と呪った。
人の表情を見ると、それだけで何を考えているか分かってしまうから。それがとてもつらいから……。

私はいわゆるHSPよりももう少し体感する力が強いエンパス体質であるらしい。もともと外界の動向に敏感すぎる性質だったのが他人に攻撃される経験をして一層その力が鋭敏になったのだと思う。
繰り返しになるが私はいじめによってこれ以上ないほど病み、自分を責めてしまった。自信をなくし他人を信じられなくなり他人を疑惑の目で見るようになった。
私のことをどういう目で見ているんだろうか。見下されてないか?嘲笑われていないか?攻撃されないか?気になって仕方なくなった。自意識過剰だと分かっていても被害妄想は止められなかった。
だからいっそのこと、
《人の顔色が見えなくなればいいのに!!》
《そうしたら穏やかに暮らせるのに》

と願ってしまったのだ。自分でもびっくりするくらいの強い意志だった。精神の摩耗の末の縋るような祈りだった。しかし当然、現実に叶うことを期待していたわけではなかった。

しかし数年後にその願いはあっさり叶ってしまうこととなる。

中1から徐々に視力は下がってきていたが、それとはレベルの違う目の病気をいつのまにか患うことになった。
角膜の形質異常が起こり強度な乱視が進行する病気。ハードコンタクトで矯正が可能だが、コンタクトが体質に微妙に合わないという苦難が重なり、私は今ほとんど裸眼で過ごさなくてはならなくなっている。調子の良い時はテレビの字幕も読めるし日常生活が送れないほどではないが、乱視のせいで相手の表情は読めないという状況である。口角を上げたり眉をひそめたりといった顔の微妙な動きはぼやけてほとんどわからない。
私は大学生のときにこの病気が判明した時には世界が沈んでいくような絶望を覚えた。こんな複雑な視界のまま、ぼやけた世界でずっと生きていかなければならないのかと。これでは車の免許なんて一生取れないし映画に行っても付いていけない。光の見え方が特殊すぎて夜に出歩くのが怖い。これからの人生、ますますつらいことになりそうだと。 
なんてことになったのだと。

しかし、待てと言い聞かせる。
これは私が願ったことだったろう?
私がこうなりたかったのだ。私が強く想ったからこうなったのだ。この負の引き寄せ現象について、たとえ他の人にありえないと馬鹿にされても私は寸分も疑っていない。
私の不満は私の責任なのだ。ホ・オポノポノ。

思い出してみろ、視界がぼやけたおかげで受けた恩恵は確実にあっただろう?
人の顔色が分からなくなったことで他人の評価を気にしなくなった。
人の容姿もよく分からなくなったので、嫉妬羨望の気持ちが薄まった。
これは弊害でもあるが、自分の顔もはっきり見えないので自己ケアとか容姿を良くしなきゃとあれこれ思い悩むことがなくなった。不細工でも別にいっかという気楽な気持ちで居られた。
全く見えないわけではなかったから、読書もできたし手芸もできた。頑張ればアニメやドラマも楽しめた。
苦しさだけじゃない。なにも楽しいことがなかったわけではない。

私は目のことについて、願望を叶えてくれた潜在意識か超意識か神様にちゃんとお礼を言いたい。私を楽に生きさせてくれてありがとう、と。
でもこれからは、他人を猜疑心や警戒の目で見るのではなく愛の視点で向き合いたいと思っている。人の表情の変化も楽しみたい。人々の背後にある景色の細かな美しさや変化を味わいたい。ゼロ(産まれたばかりの赤ん坊)の頃に戻りたい。
だから《周りの顔色を知りたくない》という悲痛な記憶をクリーニングして、手放してみる。その先は期待しない。もし上の意識が私にまた愛の手を差し伸べてくれるなら、状況はなんらかの形で改善していくはずだ。

【ありがとう】
【ごめんなさい】
【許してね】
【愛しています】

どの時点も私は完璧で、素晴らしかったよ。ウニヒピリ。

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