東京川風景・隅田川
亀戸の新居は、国道十四号を渡って数分もしないビルの三階にあった。間口三間にも満たないような小さなビルで、一階に小料理屋があった。表に出される週替わりのお品書きに、今何が旬かを教えられる。似たようなビルが立て込んで、日はまったく得られない。それでもベランダの干し物は問題なく乾いたし、日のないところに籠る不都合は感じなかった。それを補って余りある、下町という土地柄の明るさであり、楽しさだったのである。そしてなんといっても、下積みであるという意識が何にでも耐えさせたのだし、謙虚であればこそ、艱難辛苦も格別の味、というところだったろう。
三十も半ばにかかろうとしていた。
国道十四号を西へ十分と自転車を走らせると、錦糸町に出る。東京の西ではちょっと拝めない柄向きの繁華街。それを過ぎ、新規のマンションの合間合間に河豚屋に三味線屋、寄席に猪鍋屋と、老舗の混じる落ち着いた界隈が来て、回向院の入り口が左手に見える頃には川の匂いが濃くなって、かつて武蔵国と下総国との境をなしたそこは両国、橋の下の水はいつだって鈍色に波打っていた。
隅田川に架かる橋はそれぞれに特徴があり、両国橋は三大ゲルバー橋の一、欄干下の外壁は赤く塗られ、橋脚の真上にくる歩行者用の見晴らし台は半円形に迫り出して、ハノイの塔を逆さにしたような意匠が施され、同じ赤に塗られている。明暦の大火の折に、火の海は西から東へ山の手の人々を追いやり、お上は開幕以来千住大橋のほか架橋を許さなかったから、大勢の人間が隅田川手前に追い詰められて亡くなった。その反省からなった大橋であり、橋を渡ると途端に視界が開けるのは、この地に作られた火除け地の名残り。ちなみに回向院は焼死者十万と言われた犠牲者の霊を慰める元は万人塚で、鼠小僧次郎吉の墓がある。それから山東京伝の墓。
両国橋を渡って自転車で十五分、やがて浅草の雷門が視界に入ってくる。
仕事の後の真夜中のツーリング。ロードバイクを走らせて、往復一時間弱の道行の折り返しが浅草寺の境内で。ひと気の絶えた本堂の前に小休憩して、ライトアップされた五重塔を見上げる。その向こうには花屋敷の観覧車。シャッターの下りた仲見世通りは夜通し煌々と照らされて、雷門を潜ってここを突っ切るのがまた格別だった。気が向けば、旧吉原界隈まで足を伸ばす。引き返して両国橋の見晴らしで自転車を降りると、しばし川面に映る夜灯りを眺めながら、猪牙舟(ちょきぶね)の行き来した江戸の往時を偲んだ。
鏡花や荷風の描く隅田川に馴染んだのがちょうどこの頃で、それで隅田川といえばとかく江戸情緒を嗅ぎ分けるようにして眺めるのだったが、この川とのそもそもの馴れ初めは遠く十数年前に遡り、二十歳前後の若人にとっての、「社会」という名の彼岸の手前に横たわる三途の川のようにしてあった。というのも、遊び場といえば渋谷新宿吉祥寺で事足りたのが、映画にしろ芝居にしろ嗜好がうるさくなるにつれ、大人の街として敬遠された有楽町界隈まで足を伸ばすようになり、そこへ万年筆やら近代建築やらへの興味が加わって、有楽町から日比谷もしくは銀座、晴海通りを下って果ては月島まで、時間ばかりはたっぷりとある文化系学生にとっての散策スポットの一となっていったのである。「昨日は銀ブラした」なんて口にするのが、面映ゆいような、なんとも誇らしいような、そんな青二才だったわけだ。
青二才はやがて東京の方々の建築物を訪れて、朝から夕まで水彩のスケッチを描くようになった。建築写生といって、それが建築学科の入学試験の項目の一としてあるのだ。思うところあって、密かに転学を画策していたというわけだ。
護国寺不老門:文京区音羽
根津神社楼門:文京区根津
旧岩崎邸:台東区池之端
東京国立博物館表慶館:台東区上野公園
聖徳記念絵画館:明治神宮外苑
旧古河邸:北区西ヶ原
自由学園明日館:豊島区西池袋
築地本願寺本堂:中央区築地
東京都慰霊堂:墨田区横綱
国立代々木競技場:渋谷区神南
東京カテドラル聖マリア大聖堂:文京区音羽
世界堂で水彩紙を寸法に合わせて切り売りしてもらうことを覚え、B 1サイズのラワン材のパネルに刷毛でたっぷりと水を含ませ張り付ける。パネルのへりに合わせて折った紙の四辺を紙製の水貼りテープで留めるのだが、適当な長さに切ったテープの糊側を表にしてその端を左手に持って目の前にかざすようにし、水を含ませた刷毛の毛のところを親指に添えて、その親指と人差し指とでテープを挟んで軽くしごくようにして一気に上から下へ引く作業の際は、我ながら得意の後ろ姿だったと思う。明日の天気を確認してから紙張りしたベニヤを表に出しておくと、翌朝には乾いてピンと張っている。このピンと張った画紙の表面こそこの上なく清浄なものに思えて、いつでも身の引き締まる思いがした。週末は早くに起き出して、東京の方々に出向き、暮れ時までかかって新旧の建築物を描いて飽きない時期が二十代を目前にしてあったのである。
結局、建築関係の道へ舵取りすることは果たさず、水彩画の趣味ばかりがしばらく尾を引いた。思えば未練だったのかも知れない。負け惜しみだったのかも知れない。しかし水彩画を描くことに伴う、紙を濡らすこと、乾くのを待つこと、暗色と明色の配分による光の調整、淡い色を重ねながら欲しい色を狙うこと、局所にとどまらず、常に全体を見ながら色を散らしていくこと等々の加減、衒って言うなら水と光と戯れることそのことに、なんとも言えぬ快楽を得ていたのも確かなのである。だからこそ、いつか暇さえあれば、大判のベニヤを担いで有楽町駅に降り立ち、晴見通りを下って川を渡る手前の、川縁の遊歩道の一角にイーゼルを立てて、目の前の重厚な建造物にかかりきりになっていた。まるで取り憑かれたようにして。
それは勝鬨橋。
隅田川を下る水の旅路の、当時は最後を飾る橋だった。
1959年初出の三島由紀夫の『鏡子の家』の冒頭に、この勝鬨橋は象徴的な形で現れる。登場人物一行を乗せた車が時ならぬ渋滞に巻き込まれる。事故でもあったのか。そうではなく、開閉橋の上がる時刻に当たったという次第。橋の中央部が開こうとするのを、大勢の見物が見守っている。
(…)鉄板がいよいよ垂直になろうとするとき、その両脇や線路の凹みから、おびただしい土埃が、薄い煙を立てて走り落ちる。(…)夏雄は目をあげて、横倒しになった鉄のアーチの柱を、かすめてすぎる一羽の鷗を見た。
……こうして四人のゆくてには、はからずも大きな鉄の塀が立ちふさがってしまった。
勝鬨橋の名の由来は1905年まで遡る。日露戦争の勝利を記念して彼の地に渡し舟が出るようになり、その名も「勝鬨の渡し」。橋の建設はそれから三十年近くを経た1933年にようやく着工する。40年完成。月島で開催する万博を見越しての一大プロジェクトだったが、万博自体は戦局の悪化に伴い中止の憂き目に遭う。橋の中央部分が電動で跳ね上がる可動橋で、往時は日に五回上がったといい、三島の引用にもある通り、その上を都電が走っていた。自動車の交通量増大に伴い、開閉回数は減少し、1970年以降、一度も開橋されていないという。
三島によって若者たちの「壁」として暗喩された勝鬨橋だが、『鏡子の家』執筆当時が、勝鬨橋が可動橋として活躍した時期のちょうど真ん中に位置しているのは、皮肉といえば皮肉。明治の父権を象徴する鉄の建造物は、戦後なお亡霊のようにして時流の前に立ちはだかり、それから十余年して高度経済成長期の奔流にあえなく屈するの図。鏡子たちの眼前に障壁はなくなったわけだが、それはそれで無軌道な奔流の歯止めは利かなくなり、これを憂いてついに三島は抜刀するに至った、ということになるのだろうか。
90年初頭の凡夫の若者は、ビル風に煩わされながら、その鉄鋲に覆われたいかめしい橋の情緒を画紙に留めんと苦戦していた。誰に頼まれたわけでもなく。当時夢見たのは、この橋の跳ね上がる勇姿にほかならず、橋に稲妻の如く電気が走り、眠れる動力が唸りを上げて実現する圧倒的な人工の異形を、この目に焼きつけたいと思っていた。しかしそれはあくまで夢なのであって、実現したらしたで、拍子抜けするだろうことも予想のうちにあった。夢見られた圧倒的な力の胎動を予感させる絵が描けたなら、と願っていた。
時期的にはそれからまもなく、通勤時間帯の都心の地下鉄で、猛毒が撒かれる事件が出来した。この日本でこんなテロが、と驚愕するテレビのコメンテーターの横で、別のコメンテーターが、日本赤軍でもわかるようにこの国は元々テロの老舗です、と涼しい顔で言ってのけたのを今でもよく覚えている。大学構内で見目麗しい女の学生に呼び止められたのを不意に思い出し、今思えばあれは本件の首謀とされる宗教団体の末端に触れる機会だったと思い至る。後ろから袖を引かれるようにして呼び止められて、綺麗な人だな、とまずは思った。こちらの反応に気を良くして、真理をいっしょに探究しないか、みたいなことを言ってきた。もとよりひとりで行動するのが性分で、誘いには必ず裏があると考えるようなひねた性格でもあったから、ほとんど本能的に反駁していた。
「では年寄りはみんな正しいの? 彼らにしか真理は得られないの?」
「そうは言ってない」
ただ、高校生の時分には理解できなかったカミュの『シーシュポスの神話』が、最近になってようやく読み通せたことを実例として言外に置きながら、知り得る真理はこちらの成熟度に左右されるのではないか、という意味のことを述べたのだ。
「真理は一つだから、年齢によって解釈が変わるようでは、それは真理ではない」
綺麗な娘とそれなりに人の往来のあるところで議論めいたことを演じるというのは、あの年頃ならある種の優越感を感じもしただろう。しかしそもそもディベート慣れしておらず、人を口で打ち負かすのも、打ち負かされるのも好まなかったから、ただただわずらしくなって、走るようにしてその場から立ち去った。
事件が出来して、あの娘がどうなったかなど、知る由もない。
ただ、1950年代の日本の若者が感じた閉塞感は、70年にも、90年にも受け継がれ、解決に用いられようとした手段は様々なれど、いまだにそれは解決されぬまま厳然としてそこにあって、人はいたずらに老いゆくばかり。どうあっても死ぬとわかっているのだから、抜刀するまでもないというのが凡夫の言い分で。
そしてとうとう勝鬨橋のスケッチは、着彩までには至らなかった。
両国橋から夜の川面を覗いていると、留楠木の香がふいに漂い、振り返るとそこにたたずむ和装の女。身幅の広い年増で、黒留袖に銀糸金糸の帯をして、裾にまつわる碧の波、端折りの褄から蹴出しの緋が目に鮮やかに覗いている。
「縁日の帰りですか」
聞かれてなんとも答えずにいると、ほろ酔いと見え、やや心もとないような足取りで身を寄せてきて、怯むとそっとこちらの胸に手を添え留めるようにしてから、
「あの、手伝ってくださいな」
見ると何やら新聞紙にくるんだものを両腕に抱えている。それをまずは受け取ると、予想に反してずしりとした重み。
「それをここからほかしてくださいな。下から放るのもなんだかで。そちらへ身を乗り出して、ざぶんとひと思いに」
「これはなんです」
「なんだとお思いで」
さてと首を傾げてこだわらず、言われるまま包みを放ると、折りからの風と波とで、ざぶんとなったか定かでない。
と、街灯の柱の向こうの暗がりから制服の男がつと歩み出て、
「ちょっとお尋ねするわけだが」
と、居丈高に尋問を開始した。いかにも巡査、何を川に捨てたとあやしむのらしい。
「自分自身の名前を知らぬとは、いかなる了見。為にならぬぞ!」
脅されたところで名前どころか人称すらないのである。しかしそこのところをうまく説明するなど土台無理な話。すると女が助け舟、
「お雛様に栄螺(さざえ)と蛤(はまぐり)とを川にほかすのは、春の風物じゃァございませんか。両国橋に桃が流れる。どんぶりこ」
「風物にかこつけて、嬰児を紙に包んで捨てるとも限らんからな」
「まァ、そんなこと」
為にならぬ、ご同行、の押し問答、巡査の手をどうにか払いのけると、女は橋の欄干に走り寄り、一瞬思い詰めたような目で二人の男を射すくめてから、向こう様へ転げるようにして消えた。慌てて欄干に取り付くと、女は俯したまま水に浮き上がり、死んだかと見る間にすーっと音もなく橋の下より屋根舟が差し掛かって、船頭らが竿で女の身を船端へ引き寄せようとするのだった。舟の障子が音を立てて開き、何事かと仰いだ男の月代は妙に青々としていて、
「どうにも捕り物かね?」
と叫ばれて、答える代わりに首肯すると、盛んに手招くので、にわかに覚悟を整えこちらも川へ転落。
上汐に海からの流れは逆巻くようで、舟に引き上げられたときには橋を駆けながら吹く巡査の笛の音は儚くも遠ざかり、風はいよいよ強くて、これでは風邪を引く、と思った。女性は? と見回すもひとりは般若ひとりは菊慈童の刺青をした船頭二人と、月代の青い若衆の二人、その後ろに三人控えて、手前の禿頭は僧正にしてはやけに艶かしさの勝つ御仁、向かいは海老茶の羽織袴をきちんと召した旦那風、艫に近い暗がりからは面長の、武士とも町人ともわからぬ痩せた翁があるばかりで、濡れ鼠の年増などどこにも見当たらないのだった。
しばしの沈黙のあと、奥のほうからどこから来たのか尋ねるようで、当意即妙ともいかず、およそ百年か、二百年の後から、と答えていた。いずれ化かされているとは思うのだろうが、いかなる椿事も受け流せるような筋金入りの風流人らと見え、自然と場はほぐれて、聞かぬハナからこちらは歌川派の浮世絵師五渡亭国貞、こちらは地本問屋鶴屋の主人、こちらは柳亭種彦翁、そして弟子筋の種員に仙果と名乗られた。
「異人の黒船が津々浦々を脅かすとは聞くけれど……」
その服装(なり)は異人由来でないかと問われてそうだと答えると、すると遠からず倭の国は他国に取られるのだね、と恬淡と言うのがかえって凄みを露わにした。そうではない、と言おうとして、つまるところそうかも知れないと、も少し深いところでの認識が邪魔をする。それにさらに未来のことは誰にも分かりはしない。妙な間合いとなって、そこへ取り成したのは種員。
「しかし先生、どうにも先刻から浮かないご様子で。遠山様との面会は首尾よくいかれたのですよね」
師は黙念としてひとり収めるつもりでいたのだが、今宵の不思議に感じたものか、珍しく思い詰めたような面をして、訥々とおのが心のうちを探りはじめた。
「何があったというでもないよ。遠山左衛門尉改め遠山金四郎といえば、かつては悪名聞こえた遊び人、これが天下の勘定方と御成になって、今なお旧懐の情は厚く、なにおとなしくしておればお咎めなどあるまいてとお墨付きを与えられたようなもの。しかしこちらも武家のはしくれ、かつての荒くれが国難に際し命を賭して臨まんとするもののふの気概に感じて、おのが歴史を振り返って後ろ暗くないと言えば嘘になる。黄表紙、洒落本、滑稽本、読本、合巻、人情本……と、戯作もまた、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、せめて浮世の慰みともなればと文机に向かいて精進したものなれど、今となってはうたかたの夢、風俗の不潔のほうこそ思いやられて、居ても立ってもいられず、こんな細身の脇差なんぞを帯に挟んで、誤魔化してみたり。これがもう、なんとも遣る瀬ないわけだ。寛政御改革の折、山東庵京伝が黄表紙御法度の御触れを破って手鎖五十日、版元の蔦屋は身代半減の憂き目を見たのはよくよく肝に銘じるところではあるけれど、何につけても勇気の失せるが老境の悲しさ、田舎源氏なんぞ物して持て囃されるなど笑止千万、放蕩背倫の咎で御用となれば、皆も無事では済まされまいて」
それからは誰ひとりとして口を利く者はなく、櫓を漕ぐ音ばかりが物悲しく鳴いていた。
遠く水上に夜釣りの船の篝火が水面に落ちて、夢うつつに眺めていると、いつか陸(おか)が迫って、葦原の向こうにちらちら見える岡場所の灯り。あるいは狐火。三味の音やら乱痴気の声やらが風に途切れ途切れに耳に触れ、男たちは舟ばたより腕を差し伸べ川の水を盃に受けては洗いして、それからは銘々向き直り、手酌でなみなみ注ぐと、毒でもあおるように飲み下していく。
岡場所の反対側はというと、アーチ全体を青白くライトアップされた永代橋、これを前哨として、佃の高層マンション群が、黄金郷もかくやという塩梅に輝きながら聳え立っている。
(了)
【出典・参考】
三島由紀夫『鏡子の家』(新潮文庫)
泉鏡花『日本橋』(岩波文庫)
永井荷風『雨瀟瀟・雪解』(岩波文庫)
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