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淫雨

 あなたが来る日はいつも雨。

 そう言うと、あの人はちょっと不機嫌そうにした。図星だったのだろう。それがどういうことなのかまで、わたしは詮索するつもりはなかった。ただ、言わずにはおれなかった。あなたのことはなんでもわかってるってことを、ときに知らせずにはおれない。あなたを不機嫌にするとわかっていながら。

 背中の向こうにいつだって雨がある。あなたは雨を背負ってわたしをかき抱く。わたしの若さをむさぼる。するうち、わたしはあなたがわたしを雨から守るように錯覚しはじめる。その大きな背中で。ああ、わたしたちの、この世に、ふたりだけ。荒波に呑まれまいとするように、指先に力がこもる。思わず、あるいはわざと、爪を立てる。わたしが痕跡を残そうとする所作にときに敏感に反応することがあって、不意の力で弾かれて、ベッドの下へ転がされたことがあった。どこかに頭をしたたか打ちつけたもので、物凄い音にあなたは心配で顔を覗かせたに違いないけれど、その表情は黒く塗りつぶされていて、じき白い歯が闇に茫と浮いて、わたしには笑っていると見えた。

 あなたの忘れていった文庫本。わたしの知らない外国の小説家の短編集。まさかあなたが小説なんか読むような人だったとは。それともあなたは、それを読めというつもりでわざと置いていったのか。なんだか術中にはまるようで、わたしはその本をけして開かない。目の届くところにはあるのだけれど。

 明日は休日という朝に雨もよいの空を見上げると、今夜こそあの人は来るかもしれないという予感に満ちている。夕まで、宵まで、夜まで、夜更けまで、雨よ、降れよ、と願う。いや増すようならなお嬉しい。ハタからはいつもと変わらぬように見えても、そんな日のわたしは、ずいぶんと内側はうるさくて騒がしい。やがて晴れ間の見えようものなら、恨めしさのあまり、明日は目星のついたグラウンドをいくつか回って家庭の平穏とやらを脅かしてやろうかとも考える。球場の端に日傘を傾けたわたしを見かけたなら、あの人はどんな顔をするだろう。野球少年にはこれ見よがしに笑顔で手でも振ってやろうかな。
 そんなこと、戯れにだって想像してはならぬ。ならぬと、身悶えしながら、戒める。内側で。

 金曜の雨の日は、だからわたしは夕餉の支度に余念がない。敢えて腕に縒りをかける。そのこと自体が目的化して、気も紛れるようなのだ。
 仕事を定時に上がると(用ありげならまず誘われない)、自宅の最寄駅から二駅手前のターミナル駅で降りて、ショッピングモールを覗いて鮮魚、精肉、野菜を買い込む。デパ地下に寄って酒と肴を奮発する。
 料理に弾みがつくと、男のことなど忘れてしまう。わたしの舌を楽しませるつもりでわたしは腕を振るう。レシピなんてあってないようなもので、すべて目分量。
 一人暮らしの狭い食卓に一通り菜が並べられると、わたしはもうすっかり満ち足りている。

十月某日。
一日小雨降り止まず。
・金目と平目のお造り
・炒り玄米の栗ご飯
・きのこ尽くしのポトフ
・鶏肉とアボカドとカシューナッツのわさび醤油炒め
・ズッキーニのナムル
・バルバレスコ
・ゴルゴンゾーラ(ピカンテ)
・恨み節少々




 誕生日なんて、なければいいのにと、いつからか思うようになっていた。SNSなんか、どれも遠い昔に人の口車に乗せられてアカウント登録したきりで、自分は幽霊みたいなものだけど、律儀に人の誕生日を通知してくるのは、なんとも押し付けがましくて、うるさい。自分の誕生日が同様に方々に喧伝されてはかなわないと個人情報のいくつかを非表示にしたら、もう誰からも祝われなくなった。せいぜい田舎の親が電話をよこすくらい。いい気味だ、と思っていた。

 それにつけてもあの人の誕生日。それを忘れられないのが、いかんともしがたく。そうとは意識されずとも、なんだか当月になると気忙しくなって、なんでだろう、なんでだろう、とおのが内を探るうち、ああ、と行き当たってしまう。

 もうあの人は来ない、とほとんど諦めかけていたのに、その日がたまたま金曜日でまた雨ときて、性懲りもなく半日と内側はざわついていた。
 タイムカードを切ろうとすると、最近中途転属されてきた若手社員の「坊や」が後ろから声をかけてきて、夕食でもいかがです、と誘った。昼に坊やに仕事をちょっと教えてやることがあって、二、三ことばを交わしたくらいで当人すっかり気安いつもりらしい。この図々しさ、だから若い男はイヤなんだと内心唾棄しながら、「このあと入院中の母を見舞わなきゃいけないんで」と口からデマカセを言う。若い男はなにかと傷つきやすく、ともすると逆恨みするから、(こんなオバサンにお声がけくださって)ありがとうございます、と丁重に礼を言うのも忘れない。ただし、また、機会があれば、とは、金輪際言わない。このタイミングで声をかけるとは、どの道縁はないのである。

 二駅手前で途中下車すると、ショッピングモールを巡り、旧商店街の路地路地を回り、デパートに立ち寄って、男物売り場のショーケースを覗いた。万年筆の形を模したネクタイピンとカフスのセットをプレゼント用に包んでもらう。いつかネクタイを贈ったことがあって、こういう身につけるものは困る、と男は言った。その困惑した顔になぜか欲情して、激しく求めながら、あれをつけて欲しい、つけているところを写真で送ってほしいと訴えた。家を出てから駅のトイレに立ち寄って、贈ったネクタイに付け替えてから出社する。退社後は、これまたどこかに立ち寄って家を出たときに付けていたネクタイに替えるのだとのちに聞いて、心に快哉を叫んだのを昨日のことのように覚えている。
 さて、ネクタイピンとカフスはどうするのやら。なにをどうせがまれようとうっちゃっておけばよさそうなものの、自ら危険を冒しにいくようなところが男という生き物にはあるようで、こんなちっちゃなものに煩わされる男を想像するだに、愛おしくって仕方がない。

十一月某日。
夕より本降り。時折雷鳴。
・秋刀魚のお造り
・生姜の炊き込みご飯
・赤味噌のなめこ汁
・秋刀魚の塩焼き
・大根とかぼす
・蓮根キムチの胡麻和え
・シャブリ
・スティルトン
・憐憫少々




 坊やはあれで諦めるかと思いきや、なかなかしつこくって、しまいには病院までお供するなんて言い出す始末。なんとなく見透かされているような気もして、それならそれで勝負してみる? という気になっていた。

 よくしゃべる男で、問わず語りにするのは大半が自慢話だが、自慢のあとでそれを埋め合わせるような哀感を漂わせる。……それは今思えば空前のモテ期やったんですよね、でも、そんなことしてたらどんどんお金なくなってしもうて、ああ、恋愛運って金運とアイコなんやなぁ、と。そんなん嬉しゅうない、だって、ぼく、女の子よりお金のほうが好きやし。お金あったらぶっちゃけ恋愛だって買えますやん。好きやと嫌われるんは、恋愛もお金もおんなじなんですかねぇ。

 それが坊やの独特の話芸というもので、つい心のシールドが下がって心から自分が笑っているのを発見する。そういえば、わたしは長らく笑っていなかったな、とその場を俯瞰しながら思っている。男が大仰に驚いてみせる。ふくれてみせる。呵呵大笑する。目を丸くする。慰める。励ます。叱るフリをする。不意に思い詰めたような顔になる。

「それでは、ぼくは帰ります。今日は本当に楽しかったです。また、色々とよろしゅうお願いします」
 ああ、これでしまいなのね、とこちらに物足りなさを残して去るところがまたなんとも油断がならない。この勝負は引き分けだ、いや、負けかもしれぬ、なんて思いながら、帰路についた。終電までまだ二時間とあるような時間帯。

 家に着くと、部屋の扉にメモ書きが貼られているのを発見する。ここはオートロック付きのマンションだが、男に合鍵を渡したままなのを今更のように思い出した。

《お元気ですか?》

 なにが、と悪態ついて引っ剥がすと、そのまま丸めて外へ放り投げようとして、ポイ捨ては良かない、とコートのポケットにしまう。直筆とはレアじゃん、あの、クエスチョンマークとかたまらん、なんてどこかで思ってるのだから世話はない。もしかしてどこかでこちらをうかがっているかも、と思い出して外廊下の仕切りに身を乗り出してしばらく見渡すが、それらしい影は見当たらない。と、ぽつ、ぽつ、ときて、あれよという間に繁くなった。時雨ではなく、おそらくは地雨。


十二月某日
日の変わる時刻より地雨。
・鯛の刺身の牡蠣醬油漬け(昨夜の残り物)
・白菜、胡瓜、にんじん、大根の糠漬けの微塵切り
・いりこと昆布と鰹節で取った出汁
・冷飯に鯛の漬けと漬物ぶっかけて、熱い出汁を注ぐ
・余市(ロック)
・シェーブルチーズ
・胸いっぱいの、さようなら



 もう年の瀬である。
 こんなに静かに暮れてゆく年が、いまだかつてあったろうか。わたしはもはや、誰をも待たないし、誰からも待たれない。いずれあの人の記憶も薄れていき、消えることだろう。いや、小さく折り畳まれて、心のどこかにしまわれるのだろう。消えることなど、けしてない。一度会った誰彼のことを、人は容易く忘れるものではない。なぜなら、会ったが最後、ほんの一部でも、彼らはわたし自身になるのだから。

 この頃、あの人の忘れていった文庫本を暇にまかせて読んでいる。やっぱりこれは、わたしへの当てつけだったのだとしばらくは確信しながら読んでいた。ああ、でもそれは見当違いだと、この頃では思う。だってそこに描かれるのは、彼の預かり知らないわたしなのだから。

ああ、どこかに、身を隠し、自分ひとりだけで、だれの邪魔もせず、誰の心配もうけずに、自分の思うだけ長くいられるところはないのかしら? この世に、彼女が大きな声でーー最後に、泣けるところはないだろうか? (…)そして、いま、雨がふりだした。どこにも行くところはなかった。

チェーホフ短編集


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