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梅猫 #2/3

その日の午前中、図書館に本を返しに行った私は、汚損がひどいと言われ弁償させられることに。これが日常の些細なほつれとなり、真夜中の映画鑑賞を邪魔された私は、行き過ぎた折檻の末に飼い猫を殺し、庭の梅の根方に埋めたのでした。
『梅猫 #1』のあらすじ


 部屋の外に気配がして、私は夢うつつに耳をそば立てながら、猫の訪いと疑わずにいたのでした。

 猫は平日は決まって朝の八時過ぎに私の部屋に侵入しようとして、廊下と部屋を隔てる上下に磨りガラスの嵌った引き戸の隙間に前脚の爪を差し入れて、こじ開けようとする。その時刻に猫が私の部屋を訪うのは、妻が次女を幼稚園の送迎バスの停車場まで連れに家を出るからで、家でひとり、もとい一匹になると、なにぶん間の持たない猫なのでした。私は私で仕事柄、就寝時刻が四時前後になり、八時に起こされるのはちょっとかなわないので、あるときから引き戸の内側に掛け金を取り付けて猫が侵入できないようにした。するとどうもうちの猫は執念深いタチらしく、切なげに鳴きながら引き戸に爪を立て、ガリガリやっていっかな止まない。それで私は起きてしまう。折れて猫を部屋に招き入れ、あとは好き放題させる。だからこの頃では、耳栓は欠かせないのでした。

 耳栓をしていても、気配を察するときは察する。おかしい、と訝ったのはしかし、猫のはずはないと思ったからではありません。まずは訪いのその時間でした。
 庭に面した南向きのガラス戸を閉てる二枚のカーテンの合わせ目がスリットになって、天井と壁を光の細い帯が縦に切って、刻々とその位置を変えるわけですが、北に足を向けて寝る私の枕頭からは明け方は押入れのある左の壁、これが時計回りに移動して昼過ぎには部屋の中央よりやや右寄りを切るようになって、その帯の端がちょうど枕元にかかるので、どんなに遅寝をしても正午過ぎには眩しさで目覚めるといった具合でした。いつもなら引き戸の向こうでガリガリと音の立つ頃合いには、光の帯は左の壁を切っている。足先の磨りガラスを見やれば、座る猫の白い影が滲んで見えている。カーテンのスリットから射し入る陽光の帯の位置と猫の位置とがですね、それこそ抽象画のようにして半醒半睡の脳に記憶されているわけです。だからそのとき、猫かと思って薄目を開いたら、左側の壁にあるはずの光の帯が正面の引き戸にかかろうとしていて、その位置からしてふだん猫の訪う時間とは異なる、ほぼ真昼時と知れるのでした。その違和感から、おや、となり、掛け布団の膨らみを手で抑えて顎を引き、足の先へ目を凝らす。

「パパ、パパ。おから、そっちにいる?」
 引き戸の向こうにいたのは猫ではなくて妻なのでした。青いセーターにベージュのスカートの、よそ行きの服装をした妻の影が磨りガラス越しに見えていた。
 こちらが目を覚ました気配を察したものか、遠慮がちに尋ねる。パパとは私のことで、おからとは飼い猫のこと。それでようやく私は真夜中に自分がしたことをまざまざと思い出したのでもあった。猫はもちろんこの部屋にはいない。家のどこにもいないとなれば、猫に私のしたことの現実味は間接的ながら深まるというもの。夢であったなら、という願望が私の奥底にあって、だから引き戸の向こうにいるのが妻だと知って、私はいささか失望しているのでもあった。
「いや、こっちには来てないねぇ」
 そういってやるのがやっとでした。もう頭が、なにも知らないテイを装うにはなにをどういえば自然かなどと計算し始めている。愛猫の不意の失踪に狼狽える家人らを見るにはあまりに忍びなく、咄嗟に私は仮病を装った。もちろん妻は心配したが、今必要なのは深い眠りばかりだと私はいかにも苦しげに告げる。引き戸に留め金がかかっているから、妻も部屋に入って私の額に手を当てることもできない。これで当面はやり過ごせると安堵した私は、遅番で向かうはずの職場に体調不良につき欠席する旨メールで知らせ、ふたたび眠りに落ちたのでした。

 次に目を覚ましたときには、あたりはすっかり暗くなっておりました。スマホを見て、まだ今日のうちであるのを確認する。
 磨りガラス越しに妻子が暗い廊下に立ってこちらをうかがうように思われて、起きかけて気のせいだと知る。廊下の突き当たりにある食堂から灯りが漏れて、母子らの夕餉の団欒の音が聞かれた。猫が逃げたと皆悲嘆に暮れているはずで、子どもたちの泣き腫らした顔に迎えられて、私はなにをいえただろう。とても顔を出せたものじゃないと今日のところは諦めて、相変わらず寝床にうずくまるうち、なんだかほんとうに具合が悪くなるようでした。というか、家人の誰かがふと私の言動を怪しめば、今自分のしていることは、その疑念の火に油を注ぐばかりとさすがに私も察する。殺人の発覚を恐れる罪人の心理とはまさにこうしたものだろうと脂汗をかきながら熱にうなされる感覚を得るいっぽうで、たかが猫一匹殺めたくらいで法的な咎め立てなどあるはずもないと居直り、これが殺人でないことを神様だかご先祖様だかに感謝し安堵する自分がいる。しかし仮に私が猫を殺したと告白したとして、そのような事実は妻子らには到底受け入れられるものではないだろうし、私を心底軽蔑して許さないのか、それでも私への愛情と忠誠がまさって猫が悪いとなるのか、はたまた私を夜叉鬼神の類のように見なしてひたすら恐怖するようになるのか、その先はまるで見当もつかない。感情の数直線を正に振れ、負に振れを繰り返し、ほとほと疲れ切ったところで、子どもらの走る足音、子どもらの発する奇声が不意に耳についた。

 子どもたちの無邪気に救われる思いがしたものでした。たちまち、私は許される、となった。それは啓示といって過言ではなかったでしょう。日頃不信心の極みのような私が、寝床で胎児のように丸くなり、胸元に手を組んで祈っている。これからは生きとし生けるものすべてに敬意をもって接し、感謝の心を忘れず、真人間になりますと呟くなり、図らずも両目から涙が溢れ出た。あんなに泣いたのは、もしかすると生まれて初めてだったかもわからない。
 そう、私は心から妻と子どもたちを愛しているのでした。



 いずれ日を跨いだ深更だったでしょう、眠りが破れ、私は寝床のなかで身じろぎもしないで耳を澄ますのでした。なにか尋常ならざる気配が漂うようで、ふと足先の引き戸に目をやると、磨りガラスの向こうに青と白の影が取りついているように見えた。それは私が見ると同時に、すうっとうしろへ下がって廊下の闇に没した。妻、と一瞬なるわけですが、こんな時間によそ行きの服装をして引き戸越しにこちらをうかがうというのもいかにも妙だった。驚くというよりゾッとして、言葉をかけるのさえ躊躇われた。いずれ夢うつつと強いて納得してふたたび寝入ろうとすると、頭の先で闇を引き裂くような叫び声が上がった。頭の先とはつまり、庭側です。私は恐るおそる片側のカーテンを開けた。

 真っ先に目に入ったのは庭の梅でした。梅の木にシャベルが立てかけられてあるのを認めて、手抜かった、と私は舌打ちした。
 いや、そんなはずはない。私はあのときは妙な明澄感というか明晰感を得ていて、いつになく手際がよく、冷静沈着で、たしかにシャベルは元あった物置へ戻したはずだし、自分のしたことはすべて細部まで克明に覚えているのでした。だから、あそこにシャベルが立てかけられてあるなんてあり得ないと、私は今にも叫び出しそうになった。
 それもそうだが、なおいっそう私の目を奪ったのは、梅そのものなのでした。昨日見たときには二分咲きだったのが、今見ると闇夜を白でベタ塗りしたように、枝のかしこに花叢がある。八分はもう咲いている。この庭は、三方を二階家に囲われて街灯の明かりから隔てられるので、家々の灯りが落ちれば周囲の夜より一段と暗い闇に沈む按配なのですが、土の黒か夜闇の黒か境界の定かでないなかで、花叢の白ばかりが茫と浮いて、それもかすかに蠢いてみえる。風があるのかと思ってしばし目を凝らすが、ひらひらと舞い落ちる花びらはどうやら認められない。

 すると、花叢それ自体が塊のまま、ひょい、という感じで地面に落ちた。落ちてもなお輪郭を保ったまま、飴のように伸びて、また縮こまり、大きな繭さながらに不動になる。続けてまたひとつ、またひとつと花叢は落ちて、梅は五分咲き、三分咲きとたちまち痩せ細った。地面には大きな繭、というか枕でも並べたようになり、もはや花叢ではないなにかだった。すると今度は、白の塊のひとつが、つつつつつっと、窃視するこちら目がけて一直線に進んできたものだから、私が仰天したのはいうまでもありません。いい忘れましたが私はひどい近眼なもので、このときになって慌てて眼鏡を求めて寝床を這い出した。
 眼鏡を得てふたたびカーテンの隙間から外を覗いて、それでようやく花叢と見えたのが、白無垢の猫たちであったと私は得心するに至るのでした。

 梅の枝にはまだなん匹か取りついておりました。根方には、四、五匹が行儀よく香箱を作り、皆視線はこちらを向いている。明らかに私をうかがっている。一匹は手を伸ばせば届くような近さまで来ていて、いわゆるエジプト座りをして微動だにしない。目を細めているので、寝ているとも見える。おからの面影を探して果たせない。全身総毛立つとはこのことで、気味の悪さにカーテンを引こうとしたその刹那、エジプト座りがかっと目を見開いて、くわっと口を開けたかと思うと、高らかに鳴いた。

 まぁぁぁぁぁぅお

 梅の木の猫どもがこれに唱和する。

 まぁぁぁぁぁぁぁぁぁぅお


 そして繰り返す。
 私はカーテンを閉じた。布団に潜り込もうと向き直って、れいの引き戸の磨りガラスが一瞬視界に入る。磨りガラス越しに、長い黒髪に表情の知れぬ白い顔、青いセーターにベージュのスカートの影が揺れ、その影の胸と腰と膝の高さにそれぞれ同じく黒髪に白い顔が三つ覗いて、私がそれと気がつくより一拍遅れて背後の闇へ没し去った。

つづく

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